クラウディ
蕃茉莉
第一章 ニッポン
一.ハレマの日
気がつくと、大きなスーツケースと一緒に見知らぬ駅のロータリーにいた。ふりかえって駅舎を見上げると、片仮名に似た記号が並んでいる。併記されたアルファベットは「RAITO」。駅名なのか、地名なのか、いずれにしても聞いたことがない。
ロータリーの端にベンチを見つけ、スーツケースをひいてそこに向かった。ケースは大きいくせにやたらと軽い。ベンチの上で開いてみると、中はほとんど空だった。
真新しいハンカチと、二錠だけ飲んだ形跡のある薬、ケースのカギ。身分を証明するものは、なにもない。
呆然、というより、ぽかんとした気持ちでスーツケースを閉じた。ケースをベンチからおろして、かわりに自分が腰をおろす。見渡せば、四角い灰色の似たような建物が並んでいる。
濃い色のサングラスにおそろいの服とカバンを身に着けた女性が二人、笑いさざめきながら目の前を通り過ぎて行ったが、発音が聞き取れない。後ろ姿を見送りながら、学生か、と気づいた。とっさに学生と思わなかったのは、サングラスをかけていたうえ、おそろいの服が明るい黄色の華やかなパンツスーツで、制服と呼ぶには派手だったから。
制服?せいふく、セイフク、セ、イフ、ク。
いま、自分は学生の着るおそろいの服を、なんと思ったんだっけ。
かすかな記憶は、思い出すと同時にもろもろと崩れた。
いったいここはどこで、自分はどうしてここにいるんだろう。
途方に暮れてベンチへうずくまっていると、周囲からさざ波のような声があふれた。感嘆のような、驚愕のような、感情が昂ったときに思わず漏れる声。
顔をあげると、誰もが立ち止まって空を見上げている。分厚い雲の一部が開けて、眩しい太陽が姿を見せていた。
ハレマ
ハレマ
人々が、口々につぶやく。神が降臨したのを見る表情で。
そこらじゅうの建物から人が走り出てきて、タブレットを空にかざし始めた。隣のベンチに座っていた小柄な老人が、サングラスを投げ捨てて両手を掲げ、人目もはばからず喜びに満ちた咆哮を上げた。学生たちも、タブレットを握りしめて泣き声をあげている。くすんだ町に、これほどの人が隠れていたのかと驚くほど、ロータリーに人が溢れてきた。
ハレマ
ハレマ!ハレマ!ハレマ!
空を指さす人々が、ひしめき、踊り、狂喜する声は、寄せて返すたびに大きくなって、うねりのように町をつつみ、空に溢れ、陽光とともに渦となって全身を包み。
やがて反響するその響きにぐらりとめまいを覚えて目の前が昏くなり。
そして、何もわからなくなった。
目が覚めると病院だった。
看護師の服はここでも白いんだな、と思った。ベッドサイドに薬を置こうとしていたかん——こういう場所で働くひとが、こちらが身動きしたことに気づいて声をかけてきたが、言葉がわからない。
ここはどこですか。
尋ねると、そのひとは目を丸くしてこちらをまじまじと見つめ、首をかしげて、違う口調で何かを語りかけてきたが、やはり何と言っているのかわからなかった。
ここは、
ココワ、ココワ?
思考とおなじように、声に出してもすぐ自分の発した言葉の意味がわからなくなり、語尾がむなしく宙に消える。
筆談ならできるだろうか、と、文字を書く真似をすると、そのひとはすぐに了解し、ポケットに入っていたメモ帳とペンを貸してくれた。だが、文字を書こうとしても書き方が思い出せず、結局何も書く事ができなかった。
そのひとが天井から下がっていたボタンを押し、かけつけた白い男性に何かを言うと、男性はすぐに出て行き、やがて若い女性を伴って戻って来た。医師かな、と思った。
おかっぱ頭のい——患者をみるひとは、生真面目そうにきゅっと口を引き結び、まわりの説明を聞いている。まっすぐにこちらを見る意志の強そうな視線が、なつかしい誰かに似ている。誰だっけ、と、思い出そうとしたが、意識の焦点をあてるとそこから世界が崩れる。さっきまで知っていたはずなのに、と、必死で言葉や記憶を探ろうとすればするほど、頭の中は茫洋とした白い霧に覆われていった。
だめだ。
力尽きた瞬間、涙があふれた。
自分はいったい誰で。
どうしてここにいるんだろう。
誰も自分の存在を知らない。
誰も自分の言葉を理解しない。
この自分自身すら。
何もかも忘れはてて、いつか、こうやって自分を憐れむことすらできなくなってしまうのだろうか。そう思うと、たまらない気持ちになる。不安で、かなしくて、せつなくて。ただただ、泣きじゃくった。
背中にぬくもりを覚え、泣きぬれた顔を上げると、はじめに見た女性が、ゆっくりと背中をさすってくれていた。ほかのひとも、じっとこちらを見ている。優しくつつまれるような空気。すこし、気持ちが安らいだ。
あとからきた女性が、静かになにかを言った。休んだほうがいい、と言われたような気がした。表情の優しさにほっとして、ことばの意味はわからないままにうなずくと、背中をさすってくれていたひとが、具合が悪くなった時に飲むものを手渡してくれたから、素直にそれを受け取って、飲んだ。
手真似で促されるまま横になると、ぽんぽん、と赤子をなだめるように体をたたかれて、それにひどく安心して目を閉じた。
明日の自分がどうなっているのかわからないが、今は眠ろう。
眠ったら、夢を見るだろうか。夢の中では、どんな言葉を聞いて、自分はどんな言葉を話すのだろう。
そんなことを思ううち、ふたたび何もわからなくなった。
同じ日、宇宙ステーションと地上基地の間では、一見いつもと変わらない通信が交わされていた。
「メンテナンス完了。太陽と月が見える。モジュールを回収する。太陽と月は完璧だ」
「了解。ご安全に」
地上の通信基地で、職員が応答する。
「やけに誌的な連絡だな」
隣でモニターを眺めていた別の職員が苦笑した。
「気分がいいだろうさ。太陽と月が一緒に見えるなんて」
「いいなぁ。俺ももう少しタフだったらメンテナンサーになるのになぁ」
「モニター越しとは比較にならないくらい美しいんだろうな」
おなじ通信は、大海原の只中で傍受されていた。まるで迷子の
「やった、やったぞ」
「完成だ!」
7人ほどのメンバーは、互いに抱き合い、涙を流し、拳を振り上げて喜びを爆発させている。その只中、スピーカーの前で、浅黒い肌をした白髪の男性だけが、ひとり静かに目を閉じて口をぎゅっと引き結び、無言で立っている。
NC472年9月23日。
それが、新しい歴史の、幕開けだった。
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