二.ミサキ
「よう、ミサキ」
スープパスタの海を逃げ惑うホタルイカを、フォークで追い回していると、向かいの席に半袖の手術着を着た医師が皿を置き、無造作に腰を下ろした。
「どうよ、記憶喪失の患者」
「ヤマダ先生、食堂に来る時は手術着を脱いでください」
「まだ経過見なんだ。食べたらICUに戻らないと」
「脳の手術直後にナポリタン」
「いいじゃねぇか。俺はいまタバスコが食いたい気分なんだ」
「刺激がほしいんですね」
「そう。意外と出血がちいさかったから、つまんなかったの」
ヘンタイ、とつぶやくミサキの声は無視して、手術着のポケットから取り出したタバスコの瓶を数回振り、満足そうにナポリタンをかきまぜると、ヤマダ医師はクリームポーションをぱちんと開けてコーヒーに注いだ。
「で、記憶は戻ったのか」
「戻りません」
捕獲したホタルイカをスプーンにすくいあげて、ミサキは顔をあげずに応じた。
「でも理解力はありますね。元来知的能力が高いのか、こちらの言語を取得するのが驚くほど早いです」
あれを記憶喪失と呼んでよいのかどうか、ミサキにはまだ判断がつかなかった。一過性健忘の場合は言語や一般的知識が保持されている場合が多いが、あの患者はどんどん言語を喪失している。というより、どんどん言語が我々のものに置き換わっている。最初に対応した看護師の話では、聞いたことのない言葉を話したそうだが、その後そういう言葉を発することはほとんどなく、入院から10日目になる今朝は、片言ながら我々の言葉で看護師と会話ができるようになっている。異常な速さの言語習得能力だ。一般的知識がどの程度残っているかを測るのは、共通言語が見いだせないと難しそうだが、それもそう遠い先ではないだろう。
「脳神経的には何の異常もなかった」
さらにタバスコをかけながら、ヤマダ医師は首を振る。酸味のあるタバスコの匂いがミサキの鼻腔にまで届き、思わずミサキは眉をひそめた。
「太陽祭に興奮して、一時的に錯乱した可能性はないのか」
「それもあり得ます」
太陽祭。この地域では「ハレマ」と称されている。分厚い雲に一瞬隙間ができて、太陽が顔をのぞかせる気象イベント。普段は強烈な紫外線を防ぐために閉ざされている空が、ランダムに開かれる。雨雲を作り出している気象衛星が、乱数列を使って雲を晴らすのだ。
太陽祭に遭遇できるかどうかは、その人による。運が良ければ何度か見られるし、運が悪ければ一生太陽の姿を見ることはない。そんな稀少なイベントに遭遇すれば、おかしくなる者がいても不思議ではない。先週の太陽祭の時も、直接太陽を見て目を焼かれた患者で病院があふれかえり、眼科医はてんてこまいだった。
「気がふれる奴だっているだろうさ」
「そうですね。ただ」
「ただ?」
「身元がわからないので」
「ああそうか」
患者は、身元がわかるものを何一つ持っていなかった。そばにあったのは大きなほとんど空のスーツケースのみ。もっとも、太陽祭の最中に倒れたからてんやわんやで、患者が意識を失ったことに周囲の人々が気付くのにも時間がかかった。その間に手元の荷物を持ち去られた可能性もあるが、本人もなにひとつ話せないから、事情がまったくわからない。
「ミサキは、太陽を見たのか」
「ええ、病棟から陽ざしを見ました」
陽光の明るさを思い出してか、ミサキが淡い笑みを浮かべる。
「いいなぁ」
激辛ナポリタンをフォークにからめながら、ヤマダ医師は情けない表情になった。
「手術室は窓がないからなぁ」
「残念でしたね」
「そんな俺を慰めるために、仕事が終わったらディナーなんてどう?」
スープパスタを食べ終わって、ミサキはトレーを手に席を立った。
「機能的問題がなければ、PSW(精神保健福祉士)に今後のことを考えてもらおうと思っています。あとは生活場面で経過を見ていくしかないでしょうね。来週もう一度MRIのオーダーを出しますので、よろしくお願いします」
「了解」
置き去りにされて、ヤマダ医師はむっつりと答えた。
「ガン無視かよ」
ミサキの後ろ姿を見送って、あーあ、と口に入れたナポリタンは思いのほか辛く、ヤマダ医師はむせ返りながらあわててコーヒーを口にふくみ、
「熱い!」
と独りごちた。
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