五.果てのない旅(一)
そこは、荒涼とした廃墟だった。
雪をかぶった古い古い遺跡のような瓦礫が、長い風雪にさらされた様子で土に埋もれている。世界一美しいはずのバイカル湖は寥寥とした大地を鋭く切り取り、まるで巨人の錆びた剣のように、灰色の空の下、鈍く横たわっていた。
ストールを巻いたスヴェトラーナは、呆然と雪原に立ち尽くし、ゴーグルを外して荒れ果てた風景を眺めた。
「どうして」
湖のむこうに見える山は、見慣れたチェルスキー峰。湖と山の姿だけがそのまま、町は時の中に消え果ててしまっていた。
「嘘よ」
スヴェトラーナの声が震える。
「こんなこと、あるはずがないわ」
だが。目の前にあるのはたしかに自分の故郷の形骸で。
長いこと人の住んでいた気配も耐えている様子で。
「どうして」
理想の国の至高の宝石、バイカルのほとりの町は、いったいどこに行ってしまったのか。
かさ、と足元の雪が崩れた。十字架の形をした石の横に自分がいることに、スヴェトラーナは気づいた。
「墓地」
しゃがみこんで墓石の雪を払うと、うっすらと刻まれた文字が見えた。
「*****ЛИ ГО******* 2021~2**8」
2021。
スヴェトラーナの全身が、かたかたと震えた。
いまは、1981年のはずだ。
「嘘」
つぶやいたが、スヴェトラーナにはもうわかっていた。
未来に来てしまった。
「いまは、何年?」
「NC472年、今日は11月3日だな」
サラディンの声が、雪を巻き上げる風の音に重なる。
「NC?」
「NC——New Centuryだ」
スヴェトラーナは力なく首を振った。いまが何年かもわからない。なにもかも、悪い夢のようだ。
「戻るぞ。紫外線曝露オーバーだ」
サラディンに促され、スヴェトラーナはよろよろと立ち上がった。促されても立ち去りかねて、スヴェトラーナはバイカル湖を振り返った。
傾き、崩れかけた十字架の向こうに見える、灰色の湖。あのほとりで、お父さんと、お母さんと、ドミトリーと遊んだ。
一瞬、風が巻き上げた雪の向こうに、人影が見えたように思って、スヴェトラーナは走り出した。サラディンが後ろで止めるのもきかず、スヴェトラーナは湖畔に向かって走る。人影をつかまえて、この町がどうなったのか聞きたかった。だが、近づいてみるとそれは茫漠とした大地にかろうじて立っている枯れ木に過ぎなかった。
豊かなる ザバイカルのはてしなき野山を
やつれし旅人が あてもなくさまよう
(「バイカル湖のほとり」 井上頼豊訳)
母が歌ってくれたあの歌のようだ。わたしは、あてもなく暗い道をさまよう旅人になってしまった。時の隙間に落ちて、逃げようとしても逃れられない。
「お母さん」
湖にむかって、スヴェトラーナは叫んだ。涙がとめどなくあふれ出る。この世界に来て初めて、スヴェトラーナは声をあげて泣いた。信じていたから、いつか会えると信じていたから頑張れた。家族は永遠にそこにあると思っていた。なのに。
お母さん、お父さん、ドミトリー、お母さん、お母さん、お母さん。
何度も何度も、家族を呼びながら泣きじゃくる子供を、サラディンはしばらく見守り、泣き叫ぶ声が嗚咽にかわると、そっとちいさな身体を抱きあげた。スヴェトラーナは、サラディンの胸に顔をうずめ、まだしゃくり上げながらしがみついた。父が、よくこうして抱き上げてくれたことを思い出す。お父さんはビーツの香りがしたけど、サラディンからは砂漠の匂いがする、と思った。ゆっくりと車に向かって歩き出したサラディンの足元で、瓦礫と化した墓石がからからと音を立てた。
さようなら。わたしの故郷。
スヴェトラーナは心の中でつぶやいた。
見たくない、でも見ていたい。サラディンの肩ごしに、雪にけむる灰色の湖水を見る。涙がふたたびあふれ出て、サラディンのターバンの裾を濡らした。
そのままキャンプを出発した一行は、夜通し来た道をたどって南に戻り、夜が明けるとちいさな山のふもとで休息をとった。
その夕刻。まだみなが眠っているうちに、スヴェトラーナはひとりハサミを片手に外に出た。見渡す限りの雪原は、故郷のそれと変わらないように見える。ストールを取ると、スヴェトラーナはおさげにした両の髪をハサミで切り、髪の束を雪の中に埋めた。ストールをかぶり直して、しばらく懐かしむように雪原を見回し、車に戻ると、ナランが起きて大鍋に湯をわかしていた。
「こんな早くにどうしたの」
スヴェトラーナは、黙ってストールを外す。ナランが目を丸くした。
「切っちゃったの」
「砂漠で暮らすなら、いらないもの」
スヴェトラーナ——ナユタは、ハサミをキッチンのひきだしに戻した。
「音楽祭に、民族衣装を着るから伸ばしてたの。だから、もういいの。ここでなら目立たないほうがいいでしょう」
ナランは、黙って端正な子供の横顔を見つめ、やがてそばに寄ると、金色の髪をなでた。
「短い髪も似合うわ。でも、もう少し揃えてあげる」
鍋の火をとめて工具箱の中から散髪ハサミとケープを取り出すと、おいで、とナユタの手をひいて外に出る。夕暮れの雪原で、ナランはナユタの髪を整えた。灰色の雪原に、二人の姿がぼんやりとした影絵のように長く浮かび上がり、やがて闇に溶ける。二人が手をつないで車に戻るころには、空も大地も夜の色に覆われていた。
一行は撮影を繰り返しながらバイカル湖の南にある山脈を超え、モンゴル地区に入った。12月に入ると気温が極度に下がり、撮影が難しい日が増えて来た。吹雪の日は移動もままならないので、テントも張れずに車の中で足止めを喰うこともある。そんな日は、車を近くに寄せ、車同士に貼ったロープをつたって移動し、キッチンカーで交代に食事を摂る。外にも出られないほどのブリザードの日は、各自の車に積んである非常食を食べてしのいだ。
その日は久しぶりに雪が止んだ。一行は移動よりも撮影を選び、それぞれ日中から思い思いに外に出て、厚い雲の下で広陵とした雪原の起伏が作る陰影を楽しみながら撮影を繰り返した。短い冬の昼が暮れる前に冬用のテントを張って、全員で食事を摂る。これも久しぶりのことだった。
「やっぱり北緯40度を越えると気候がちがうな。風景が全然違う」
「珍しい景色がけっこう撮れたが、足がしもやけになっちまった」
食後の蒸留酒を楽しみながら雑談をするのは、こんな一日の終わりの楽しみだ。
「それはよかったが、そろそろ食糧と燃料の心配をしないといけないな」
オマールが眉をひそめた。
「遊びすぎたかな。すこし、次のコロニーに着くまでペースを上げるか」
「そうしてもらえるとありがたい」
サラディンの言葉に、オマールがうなずいた。
「サムスン、新年はどこにする」
サラディンが、今度はサムスンに話しかけた。
「キルギスに行く予定だったが、方向違いのあたりをうろうろしたから、行き先を考え直さないとな」
サムスンはグラスを置いて腕組みすると、宙を見上げた。
「このペースだと、そうだな、ウランバートルはどうだ」
「ウランバートルか」
「初めてだな」
みなの口調が弾む。知らない景色、知らない場所と聞いて胸が弾むのは、キャラバンに生きる者たちの本能だ。
「よし、じゃあ新年はそこだ」
サラディンの声に、おう、と仲間たちが声をあげた。
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