九.それぞれの空の下で(二)
NC474年9月、大統領予備選挙が行われ、スーリア党は圧倒的多数の支持により大統領指名権を獲得した。党首のグオ・メイエは大統領選への立候補を辞退した。
「私が判断を誤ったせいで仲間を死なせ、世界に騒乱を招いた。私は責任を取って党首を辞任し、後任をグエン博士に任せたい」
だが、グエンはそれを固辞した。クラウディに搭載したシステムの安定と、新しい保守拠点の整備。技術者としての役目は山のようにある。そして、スーリアのシステムの詳細を知る者は少ない。
「あなたが責任を感じる気持ちはわかる。だが、自分は政治にかける時間がない。弾圧の時が長かったせいで後進の育成もまだこれからだ。今はあなたが役目を果たすことで、その責任を全うしてはもらえないか」
グエンや周囲の説得にようやくうなずいたグオ・メイエは、12月、第七十五代世界政府大統領に就任した。
スーリア党がまだ議会を掌握しておらず、かつ大臣経験者がいなかったこともあり、グオ大統領はクラウド党やその他の政党からも三分の一の大臣を指名した。政局に混乱を招かず、安定的な政治運営を実現するためには、クラウド党の協力も不可欠だと支持者に訴え、賛同を得た。
年が改まったNC475年6月。500の国会議席のうち半数、250席の任期満了に伴う議会選挙が行われた。結果はクラウド党が89、スーリア党が121、その他の政党が40の議席を獲得した。残りの半数はほとんどがクラウド党員だから、議会においてはクラウド党がそのまま与党を維持している。スーザン・オズマ率いるクラウド党は、新しい環境の中で経済を安定させることを公約に掲げた。与党と野党は協力しながら、新しい世界を作っていくことになりそうだ。
青空と太陽と雲のもと、時が流れてゆく。
議会選挙を終えた夏、エリスは、三度目の環境大臣任命辞令を受け取った。副大臣のサミュエルの回りくどい報告にも、だいぶ慣れてきた。
「青空は気持ちがいいな」
執務室の窓から外を見るエリスは、満足そうだ。
環境専門官タイジのところには、前年に元気な男の子が誕生した。名前は「ソウタ」。澄んだ青い空が広がった、8月18日に生まれたから。明日はソウタの一歳の誕生日だ。タイジは毎日空を見上げる。どれだけ眺めても見飽きない空。そういえば最近手汗をかかなくなった。だが気が小さいのは以前のままで、今でもビルに叱られてばかりいる。
イディ——ハルトは、ササヤマ農場に戻った。出迎えたナツミははにかんだ様子で、もうまとわりついてくることがない。すこし大人のにおいがする中学生に、ハルトはなんとなく戸惑う。タカシは土に畑を作り、作物を育てている。もうじきじゃがいもが収穫できそうだ。
ナツミは最近、科学者をやめて農業経営を学びたいと言っている。タカシの後を継ぎたいのだそうだ。
「すごくいい考えだと思うよ」
とハルトはナツミを励ました。ハルトのほうは、絵を描きながらタカシを支えてしばらくは農業を続け、ナツミが成人し、誰かと出会って結婚したら、ナツミに農場を任せてまた違う道を考えてもいいかな、と思っている。
ナツミにそう言ったら、ナツミは怖い顔をして、ぷいっと立ち去ってしまった。年頃の女の子の気持ちがわからず、ハルトはレタスを並べながら首をかしげるばかりだ。
ヨウコは、スケッチブックを手に農場や荒れ地を歩き回って、青い空を描き続けている。
「星祭の作者さん、どうしてるんだろうね」
スケッチをしながら、ヨウコはモグに話しかける。BATが解散したのち、それらしい写真を見なくなった。ソロで活動をしているのかもしれないが、名前がわからない。でもあれだけの作家だから、きっとまた探しているうちに作品に会えるだろう。
空をおおきく描くおおらかなヨウコの絵に、時々、画廊から注文が来る。
「たくさん絵が売れたら、いつか砂漠を見に行こうね」
聞こえているのかいないのか、モグはしきりと土の匂いをかいでいる。
タバちゃんもニッポンに戻り、トーキョーの大学病院に就職した。難易度の高い手術が多いから刺激は当分必要ないかと思ったら、興奮したらしたでタバスコが欲しいらしい。
ヨウコとは相変わらずゲームでチャットを楽しんでいる。今のタバちゃんの恋愛ターゲットは消化器科のドクターだが、相変わらず振られてばかりなのだとか。
「タバスコを一気飲みして、胃を診てもらうかな」
「ついでにお尻を痛くして、手術してもらえばいいんじゃない」
ヨウコが茶化すと、タバちゃんのアバターがまじめに考え込んだので、ヨウコは呆れかえった。
「もう、タバちゃんにはついていけない」
「そう言うなよ」
タバちゃんのアバターが釣り竿を操りながら、そうだ、と言った。
「ヨッピーが、こんどオフ会をやろうって言ってたから、トーキョーに来ないか」
「ごちそうしてくれるなら行く」
「もちろんだ。トーキョーにはうまいものが沢山あるぞ」
「やった」
ナユタは、砂漠の旅を続けている。
写真家集団としての「BAT」は解散し、いまは皆それぞれ各自の名前で作品を発表しているが、メンバーは以前のように旅をともにしている。
オマール夫妻だけは、タンブルを連れてウランバートルに定住した。ナユタたちが訪れると、いつも懐かしい料理でもてなしてくれる。タンブルは元気に学校に通っている。将来は地質学者になりたいのだそうだ。ナユタはナランと二人、オマール夫妻にかわってキャラバンの台所を引き受けている。
ナユタは、彼がいなくなった日のことをまだ思い出せない。だから、彼がいないことがまだ腑に落ちない。時々手紙を読み返す。手紙には、「少しキャラバンを離れるが、青空をとり戻しに行くから心配するな」と書いてあった。青空は戻ったのに、彼は戻らない。
シンディの行方はわからない。帰ってくればいいのに、とナユタは思う。大切な人のことを知っている人は、ひとりでも多いほうがいい。自分がアルタンを死なせたように、誰でも、それぞれの罪を背負っているのだから。
太陽のもとで、ナユタは右手を光にかざす。温かな光は、コロニーに行くたびしっかりとつかんだおおきな左手を思い出す。太陽は、その人がくれた。その手の持ち主の名前を、ナユタはまだ口に出せずにいる。呼びかけたら、心が張り裂けてしまいそうだから。
BATの最後の作品は、ちいさな手が持つ緑の若葉。「未来へようこそ」とタイトルの付けられたその作品は、NC474年度世界フォトコンテストで最優秀賞を獲得した。それが、サラディンの遺作となった。
そして。
ミサキは、再開したメンデル研究所でメンデルの秘書を務めていた。兄が、父親のことは心配するなと言ってくれたことで、ニッポンを離れる踏ん切りがついた。兄が世帯主となっている実家の家族は、騒動に巻き込まれた妹にあまり帰ってほしくないのだろう、と察して、ミサキはメンデルの誘いを容れたのだった。
所長メンデルのスケジュールは多忙で、政治から学術に至るまで様々な執筆や講演の依頼がある。研究所を維持するためには資金の調達も不可欠で、面倒な交渉や書類の作成も多かったが、ミサキはそれを段取りよくこなしていくことが楽しかった。医師よりも、秘書のほうがあっているのかもしれない、とミサキは自分で思う。もともと、自分が主体になって何かをするより、誰かをサポートするほうが好きだった。
その日、銀行からの来客を門のところまで見送って、長く伸びた髪を束ねたミサキは青空を見上げた。午後からは環境省から出向しているキム研究員あてに、インターンシップを希望する学生が来ることになっている。資料の準備をしなくてはいけないが、朝からずっと動きっぱなしでまだ昼食も取っていなかったから、ほんの少し空を見あげて息をつくことくらい許されてもいいような気がした。
ニューヨークの乾いた空気は肌に心地よい。爽やかな晩夏の空気を吸い込んだミサキの背後で、さびついた通用門のきしむ音がした。振り返ると義足の男性がスーツケースをひいてゆっくりと入って来るのが見えた。見れば右手もいささか不自由な様子である。ミサキは男性に歩み寄った。
「お手伝いしましょうか」
そして、顔を見上げて凍りついた。男性はスーツケースから左手を離すと、ミサキに微笑みかけた。
「ただいま」
立ちすくんでいたミサキが、泣き声をあげてすがりつく。抱きつかれてバランスを崩したリョウは、背後の門壁に寄り掛かった。池に反射してちらちらと揺れる陽ざしの中で、見つめあうふたりの唇が重なる。
乾いた草の香を含んだ風が吹きすぎてゆく。青空に彩られた夏が、終わろうとしていた。
(クラウディ 完)
クラウディ 蕃茉莉 @sottovoce-nikko
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