五.逃走(一)

 午後一番の三限目、リョウはカメラの前で心理学概論のオンライン授業を行っていた。学生に課題を出そうとしたところで、部屋の外から居丈高な足音が近づいてきたと思うと、ノックもなしにドアが開いて、私服刑事が一人と警官が二人、連れ立って入って来た。

「授業中です」

「中断してもらおう。ドクター・タサキ」

「あと10分お待ちください」

「学長と学部長の許可は得ている。すぐに授業をやめて同行願いたい」

「理由は」

「情報管理法違反の罪で逮捕状が出ている」

 リョウは講義用カメラの前で肩をすくめた。

「諸君、そんなわけだ。途中ですまない。授業はここまでだ」

 学生たちが唖然としているディスプレイをそのままに、リョウは立ち上がった。

「住民カードとタブレットを」

「ロッカーです。取ってきますか」

「ロッカーはどこだ」

「そこのドアのところです」

「わかった」

 リョウは手元の教材をまとめると、教卓横のドアを開けたままにしてロッカー室に入った。がさごそと荷物をまさぐる音がするのを聞きながら、三人の警官は容疑者を待った。だが、一分たっても出てこない。

「早くしろ」

 警官がドアから中をのぞくと、小部屋の中には誰もいない。

「あっ、くそっ」

 部屋の反対側にもうひとつドアがあり、そこには鍵がかかっていた。体躯のよい警官が二、三回体当たりすると、ノブが外れてドアが開く。小部屋は隣の講義室に繋がっており、ベランダの窓が開いて、遮光スクリーンが風に揺れていた。

「やられた」

 二人の警官があわてて窓から飛び出し、非常階段に向かう。私服の男は外のパトカーで待機していた同僚に連絡を取った。

「逃げられた。捕獲に協力せよ」

 どたばたと足音がして、教卓の周囲には誰もいなくなった。画面ごしに授業を受けていた学生たちはあっけにとられていたが、画面から誰もいなくなると、チャットが盛大に動き出した。

 リョウは中庭を抜けると研究棟に走り込んだ。研究室のデスクにタブレットを置き捨てると、引き出しからちいさなリュックを取り出す。警官の怒鳴り声と足音が近づいてくる。リョウは素早く廊下を走り抜け、北側の通用門から外に出た。人気がないのを確認すると歩調をゆるめ、サングラスをかけて近くの雑居ビルに入った。中を通り抜けて再び外に出ると、人通りの少ない細い道路を渡って、ちいさな雑貨屋の裏手に回る。店舗兼住まいの裏口にあるチャイムを押すと、インターフォンから

「誰だい」

 と眠たげな男の声がした。

「グリアン」

 と答えると、ほどなくドアが開き、パジャマを着た小太りの男が顔を出した。四方でパトカーのサイレンが鳴っている。

「よう、グリアン。どうした」

「見抜かれた。手を貸してくれ」

 サイレンの音に気づいた店主は、リョウを裏口の脇にある倉庫に案内した。

「隠れてな」

「恩に着る」

 倉庫に入ると、店主が鍵をかける音がした。リョウは暗闇の中でリュックをおろすと、政府から支給されたものよりやや小型のタブレットを取り出した。電源を入れ、セントルイスのメンデルのSNSにメッセージを入れる。すぐに、メンデルがビデオ通話をかけてきた。

「やられました」

「どうした」

「僕に逮捕状が出ています。情報管理法違反、だったかな」

「なんてこった」

 メンデルが顔を覆う髭の下で唇をかんだ。

「さて僕はどうしますか。このまま潜りますか。それとも、捕まったほうがいいですか」

「10分待て。考える」

 メンデルが通話を切り、すぐにリョウはタブレットの電源を落とした。たぶん大学は大騒ぎだろう。いまのところ外は静かだが、非常線が張られたら逃げられなくなる。

「だから早く党から声明を出せと言ったんだ」

 リョウは暗闇の中でつぶやいた。

 心理調査官になったのは偶然だ。この役目は事件があるたびに当番で回ってくる。今回ばかりは気が進まなかったが、断るのも不審を呼ぶかと引き受けたのが裏目に出た。

「公安に先手を打たれっぱなしじゃないか。アンとジョージが気の毒だ」

 10分後、電源を入れるとすぐに着信ランプが光った。応答ボタンを押すと、メンデルがふたたび画面に現れた。

「逃げてくれ」

「どこに」

「オキノトリシマだ」

「どこですか、それは」

「ニッポンと赤道の間くらいにある島だ。そこにグエン博士がいる」

「そんなところに、どうやって」

「海洋調査船が三日後サンディエゴに到着する。キャプテンのカニエラ・カーペンターは海洋学者で、スーリア党員だ」

「だから、どうやって乗り込むんですか」

「それはまた考える。明日7時にまたメッセージをくれ」

 慌ただしく言って、メンデルはふたたび通話を切った。

「むちゃくちゃだな」

 メンデルはいつも突拍子もないことを思いつくが、その中でもこれはとびきりだ。リョウが苦笑して電源を切ったところで、インターフォンの鳴る音が聞こえた。

「どちらさま」

「警察です」

 ドアの開く音がする。

「一時間ほど前に、東洋人の男を見ませんでしたか」

「すいません、寝てたんで。何かあったんですか」

「医大から重大事件の容疑者が逃走しており、探しています。これが写真です。店に貼っておいてもらえると助かります」

「わかりました」

「お休み中失礼しました」

 警官が立ち去ってしばらくすると、店主は倉庫の前でがたがたとなにやら作業をし始めた。作業をしながら倉庫の中にいるリョウに話しかける。

「だいぶ相手も必死らしいな。しばらくそこにいられそうかい」

「大丈夫だ。助かったよ」

「なに、俺はアドベンチャー系が大好きだからこういうのは楽しいね。トイレに行きたくなったら、そのへんの容器を使ってくれ。飯は隙を見て差し入れる。それより、あんた大学の先生だったんだな。びっくりした」

「それはどうも」



 リョウの逃亡は、世界的ニュースになった。

「アン=ジョージ事件を担当した心理調査官が逃走中。クラウディシステムの改竄に関与していた疑いで指名手配」

 というニュースに、人々の好奇心はふたたび沸騰した。心理学の博士がセクシーな女性のアバターに扮し、クラウディシステム改竄に関わる人間を勧誘していたことは、大衆の好奇心を大いに煽った。特にリョウの故郷ニッポンでは、「陰謀に加担した心理学者の素顔」を報道しようと、多くの報道者がリョウの個人情報を漁った。そして、リョウに親族がなく、施設で育ったとわかると、こんどは知人を探し出してコンタクトをとろうと試みた。

 同時に、アンカレジの公安第四部長の指令を受けて、ニッポン行政区の公安が動き出し、リョウに関わったと思われる人々が次々と拘束された。


 ミサキは、病院の診察室に乗りこんできた刑事に連行され、取り調べを受けた。犯罪者隠匿の疑いだというが、何も知らないミサキには答えようがない。

「行き先を聞いていないのか」

「大学にいると思ってました」

 取調室のビデオの前で、ミサキは刑事の問いかけに応じる。

「大学から逃げ出したあと、連絡は」

「なにもありません」

「あんたから連絡は取らなかったのかね」

「ニュースを見て、一度メッセージを送りましたが、返信はありません」

 なるほど、と刑事は少し表情を緩めた。どうやらミサキが本当に何も知らないと理解し始めた様子だった。

「いつも連絡はどうやって取っているんだい」

「SNSのメッセージツールです」

 実際、ミサキはリョウがなぜ追われているのか、まったくわからなかった。報道では、複数のタブレットを違法に所持してクラウディ改竄に加担した、と言われているが、具体的に何をしたのかもわからない。昨年末にニッポンに来たときも、今までと何も変わった様子はなかったし、そもそも、リョウがクラウディに関心があったことすら知らなかった。

 取調室と、ノブのない監視窓のついたドアに閉ざされた、拘置所の狭い殺風景な小部屋を往復する日々。そこに自分がいることが、不思議でたまらない。

 私の知らないリョウがいる。

 恋人が、自分に一度も見せたことのない顔を持っていて、その知らない顔のために自分がここにいるというのは、どう考えても奇妙だった。

 同時に、このことか、とも思う。ふとした時にリョウに感じる違和感。リョウはミサキを、恋人と一緒にいるときに患者のことを考えると笑ったが、むしろミサキはリョウといると、時折、一緒にいるのに心が離れているような、ひやりとした思いに囚われることがある。笑顔の裏にひそむ、冷静な観察する目。肌と肌が近くなればなるほど、心が遠ざかるような感覚。それは、リョウがこういう秘密を抱えていたからなのだろうか。

 だが、リョウがなにをしたとしても、ミサキはリョウの世界に対する誠意を信じていた。リョウが、世界を害する行為に加担するはずがない。なにかの間違いか、よしんば罪状が本当だったとしても、なにか理由があるはずだ。

 ミサキはそう思い定め、自分は自分の知っていることをすべて開示し、知らないことはしらないままにしようと決めていた。リョウと再会したら、本当の話を聞かせてもらおう。それまでは、いつもどおり過ごそう。

 そう考えていたが、周囲はそうはさせてくれなかった。


 二週間の勾留期間が過ぎて、ミサキが行動の監視を継続することを条件に釈放されると、拘置所の玄関でたちまち報道者らしき人々に囲まれた。

「タサキ博士とはいつから交際していたんですか」

「彼はどんな人柄ですか」

「こうなってみて、いまどんなお気持ちですか」

「彼はリアルでも女装癖があったんですか」

「あんたたち、どきなさい」

 警官がミサキを庇って取り囲んだが、人々は押し寄せるのをやめようとしない。

 ミサキが何も答えず警察車両に乗ると、背後から罵声が飛んだ。

「あんたの恋人は、テロに加担したんだぞ」

「何とか言ったらどうだ、変態」

 マンションの前にも人だかりができていた。警官は、群がる人々を追い散らしながら、ミサキをマンションの玄関まで送り届け、オートロックが閉まるまで野次馬の群れを退けてくれた。エレベーターで三階に上がり、部屋に入ってドアにすべての鍵をかける。ひとりきりになって初めて、足が震えた。廊下を忍び足で行き来する足音は、マンションの住人が様子を見にきたのだろうか。

 ソファに座って呼吸を落ち着けた。時計は14:06。

 病院に連絡をしなくては、と思い、ミサキは、監視されているタブレットを取り出した。家族からの、膨大な数の着信が残っている。母のタブレットに発信すると、すぐに母親が出た。

「あんた、いったいどういうことなの」

 母は涙声だ。

「ごめんなさい」

「すぐにあの人とは別れなさい。そして、こっちに帰ってき——」

 母の言葉の語尾が終わらないうちに、何やら怒鳴り声がした。

「ミサキか。なんて騒ぎを起こしてくれたんだ」

 母のタブレットを取り上げたのは、両親と同居している一番上の兄だった。

「ごめんなさい」

「帰ってくるな。こっちにもマスコミが来て、今だって近所にも顰蹙ひんしゅくを買っている。後援会にも大変な迷惑をかけているんだぞ。いいか、絶対に帰ってくるなよ」

 そう言って、兄は一方的に通信を切った。ミサキはため息をついて、次に勤務先の病院に連絡をした。事務局長に取り次ぎを頼むと、しばらく待たされたのちに不機嫌な声の事務局長が応対した。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「おかげで大変な騒ぎだよ。とんだSVを呼んでくれたもんだね」

「申し訳ありません」

「それで、用件は」

「しばらく仕事に出られないと思いますので、代診のドクターを手配していただきたいと思って」

「ああそれは手配済だ。ともかく、こんなことでは仕事は無理だろうから、退職手続きをするなら書類を郵送しますよ」

「恐れ入ります。当面は休職ということでお願いできますか」

「あなたねぇ」

 事務局長の声が、さらにいらいらした様子になった。

「迷惑をかけている自覚はありますか。病院にも家宅捜索が入って、カルテも押収されたし、大迷惑ですよ」

「それは幾重にもお詫びします。とりあえず数日、保留とさせてください。またご連絡します。手続きの際は、そちらに伺います。返却するものもありますので」

「図々しい」

 事務局長のため息を聞きながら、失礼します、とミサキは通話を切った。タブレットの画面に目をやって、ミサキは苦笑した。

 こういうものか、と思った。昨年末、リョウをSVとして病院に呼びたいと言った時、ノースアメリカでも名の知られた医大の教授が来てくれるのかと、事務局長は有頂天になった。あの時はリョウの靴まで舐めそうなほど腰を低くして迎えたというのに。

 取材という名の誹謗中傷、いわれのない暴言。ふだんミサキの被る「医師」という仮面の前で、人々がこんな顔を見せたことはない。それが「悪人の恋人」と認定されたとたんに凶暴になり、無遠慮になることが、ひどく興味深かった。

 尋常にない疲労感を覚え、ミサキは服も脱がずにベッドに横になった。拘置所という異常な環境での二週間のせいもあるだろうが、むしろ、さきほどからの待遇がこたえている。これほど膨大な悪意のエネルギーを浴びたのは、生まれて初めてだった。

 親から離された仔犬のように毛布にくるまり、リョウ、とミサキは恋人の名を呼ぶ。はじめて、涙がこぼれた。

 あなたを信じてる。あなたを愛してる。どうか、無事でいて。

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