六・重なりあう世界(三)
ハルトの診察を終えたあとも、ミサキは入院患者の巡回やケース会議に追われた。午後六時、ようやく仕事を終えて片付けをし、ロッカールームを出ると、おおきなスーツケースを脇に置いたリョウが廊下で待っていた。
「遅くなってごめんなさい」
「いや、俺もさっき来た。ほかの先生と話してたから」
二人は連れ立ってLRTの乗り場に向かう。雪が絶え間なく降っている。
「ライトは寒いな」
「カリフォルニアは暖かそうね」
「肌にあたる空気が全然違うよ」
ヘッドライトで舞い踊る雪を照らしながら、始発のLRTが静かなモーター音とともに乗車場へ入って来た。入院患者の家族や病院関係者が乗り込むと、ドアを閉めて走り出す。停車するごとに乗客が減っていく。終点に近い駅で降りるころは、乗っているのは二人だけになった。
降車場からほど近いマンションに入り、エントランスの前で靴の雪を落として中に入る。エレベーターで三階にあがり、玄関のドアを閉めると、ミサキはリョウを振り返った。
「今日は助かったわ。というより、驚いたわ」
「俺もだ。ああいうケースは珍しいからな」
「でも初めてじゃないんでしょう?」
「そうなんだ。たまたま去年、フィールドワークで同じようなケースに遭遇してね。もしかしたら、俺たちが知らないだけで、時空の移動は結構あるのかもしれないぞ」
「私には、まだ信じられないけど」
スーツケースの中から着替えを取り出すと、リョウは勝手知った様子でシャワールームに向かい、ミサキは冷蔵庫からレタスとトマトを取り出して、サラダを作る準備をした。
二人が交際を始めたのは、医学部を卒業する前の年だから、もう5年になる。ニッポンの医大を卒業した後、ミサキはいまの病院に勤務し、リョウはカリフォルニアの大学院に進んで、そのままそこで教壇に立つことになった。
ミサキのサラダと、リョウのコックオーヴァンでワインを楽しんだあと、ふたりはソファに並んで座り、近況を交換した。
「今年は、ライトで太陽祭があったんだって」
「そう。9月に。そういえば、今日会ってもらった患者はその日に病院に来たのよ」
「太陽祭の日に時空を超えてくるなんて、ずいぶんロマンチックだね」
「そうね。でもあの日はとにかく外来が大混雑だったから、彼のことも、最初はハレマを見た衝撃で錯乱したのかと思った」
「そうか、医者は大忙しだな」
太陽祭か、とつぶやいて、リョウは天井を見上げた。
「俺も、一度見てみたいな」
「すごく綺麗だった。雲間から光が空から射すと、ほんとうにスポットライトみたいに見えるのよ」
「羨ましい」
最後の赤ワインをボトルから注いで、憧れの表情になったリョウの隣で、ミサキは首を振った。
「羨ましいのはわたしのほうだわ」
「なにが」
「やっぱりリョウはすごいなって」
「俺?」
外気温がまた下がってきたのか、空調の音が高くなった。
「ハルト君があんなに自然に話すの、初めて見た」
紅茶のカップを両手で持って、ミサキは自嘲の笑みを浮かべた。
「ハルト君だけじゃないんだけど。患者が感情を見せたときの受け止めがうまくできなくて。精神科医としてどうなのかって自分でも思っちゃう」
リョウはワイングラスを持ったまま、ミサキの横顔に視線を移した。勝気そうな切れ長の目が、睫毛の下に翳る。
「外科が苦手でサイコに進んだけど、患者に寄り添えなかったらそれも駄目よね。つくづく、自分が未熟だなって」
リョウはグラスをテーブルに置くと、ミサキの肩に腕を回した。
「俺は別に、寄り添ってないけどね」
ミサキが顔を上げてリョウを見た。
「あれは技術だからさ。寄り添ってるというなら、ミサキのほうがよほど患者のことを考えてるんじゃないかと思う」
俺なら、とリョウは笑みを浮かべる。
「一年ぶりに再会した恋人と一緒にいるときに、患者のことなんか思い出しもしないよ」
「あっ、ごめんなさい」
肩をすくめて紅茶のカップで顔を隠すようにしたミサキを、リョウは愛おしそうに見つめる。
「ミサキは一生懸命すぎる。だから患者の話を聴きながら、次々と対処を思いめぐらせてしまうんだろうな。でも俺は、医者はそれでいいと思う。あとは俺たち心理師にオーダーを出せばいいじゃないか」
「そういうふうに、割り切ることもできないのよね」
ため息をついて、ミサキはカップを唇にあてた。
「ところでミサキ」
リョウが耳元でささやく。
「仕事のオーダーもいいけど、そろそろ、結婚のことも考えてくれると嬉しいんだけどな」
ミサキの頬にさっと朱が射した。
「俺では不満?」
「そんなこと」
あるわけない、とミサキはリョウの腕に頬を寄せた。
「両親のことが気になっているだけ」
ミサキの両親はここからレールウェイで1時間ほど北のコロニーに住んでいる。
「父の具合があまりよくないから、ノースアメリカは少し遠いかなって」
「そうか」
ミサキの頭を抱き寄せて、リョウは少しだまった。
「なら、俺がニッポンに戻ろうか」
意外な提案に、ミサキは驚いてリョウを見上げた。
「ばかなこと言わないで。研究があるでしょう」
「スポンサーになってくれる大学があれば、俺はどこだっていいんだ。どのみち今だって一年の半分はフィールドワークだし、研究拠点はニッポンでもノースアメリカでもかまわない。来期の契約はもう済ませてしまったんだけど」
その次は転職先を探してもいいかい、と尋ねたリョウの手を握って、ミサキはちいさくうなずき、ありがとう、とささやいた。
ヤマダ・タカユキは、シャワーを浴びて部屋着に着替えると、いつものゲームにログインした。
アバターを操作して、
「はーい、タバちゃん」
酒場にいた、セクシードレスを着た黒髪のアバターが話しかけてきた。女性のアバターには「グリアン」とネームが表示されている。
「デートは楽しかったか」
タバちゃんと呼ばれたタカユキが問いかけると、女性はにこりと笑った。
「今も隣の部屋にいるわよ。かわいい寝顔は、あたしだけの、も・の」
「腹立つ奴だな」
タバちゃんのアバターは肩をすくめ、それはともかく、と話題を変えた。
「どうだい、彼は」
「とても興味深い」
「やはりな。機会を作って、俺ももう少し話をしてみる。だが、本当にそんなことがあるのか」
「わからないわ。でも、古くから時空移動の話は尽きないでしょ。浦島太郎や神隠しだって似たようなもの。話が尽きないということは、なにか元ネタがあるんでしょうね」
「信じがたいね」
「人間は、世界の仕組みをすべて知ってるわけじゃないもの。それよりも、彼に見えている世界は、わたしたちが望む世界に限りなく近い。これは」
グリアンが、にこりと笑った。
「天の采配だと、私は思うわ」
(第一章 おわり)
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