四.望郷(二)
翌日、スヴェトラーナはスアードに連れられてふたたび町の洋品店を訪れた。店に入るとすぐにナランが声をかけてきた。
「ご来店ありがとうございます。お直しができているので、試着してみてください。いま外の試着室がいっぱいなので、中をご案内しますね」
ナランは、スヴェトラーナを、店の奥にある倉庫の入り口に中に案内した。
「中は狭いので、お母さんはここでお待ちください。着替えたらお呼びします」
前日からの接客で信頼しきっているスアードは、うなずいて店にとどまった。
「よかったわ」
スヴェトラーナの手をひいて、暗くて乱雑な倉庫を速足で抜けながら、ナランがささやく。
「弟が、昼間のうちにロシアへの行き方を知っている人を見つけてくれたの」
「ほんとう?」
「弟が裏口で待ってる。私も行くわ」
スヴェトラーナの胸が弾んだ。
外に出ると、暗がりでナランと同じ年くらいの一人の男が待っていた。弟のアルタンよ、とナランは男を紹介した。
「この子かい、ロシアに帰りたいのは」
「そうよ。助けてあげて」
「ロシアのどこに帰りたいんだい」
「イルクーツク」
「イ・・・?」
「シベリアのほうよ」
「シベリアにもまだ人がいるんだな。でもそのほうがここからは近い。とりあえず行政区を越えられるように手配しよう」
特産品をロシアに運ぶ行商がいるという。
「荷物にまぎれて、逃がしてやるというんだ。少し窮屈だが、大丈夫かな」
「帰れるなら、なんだってがまんできるわ」
「いい子だ」
三人はアルタンの運転する車で走り出した。市場の裏通りに入り、くねくねと曲がる細い道を進んでいく。すれ違うのが難しそうなほど細い裏路地をしばらく走ったのち、車は灯もない薄暗い店の前で止まった。
「姉さんは先に車で家に帰って」
「わかった」
いったん三人とも車をおりて、ナランが運転席に移った。
「俺は、この子を渡したらタクシーで帰る」
「よろしくね」
本当にありがとう、と、言ったスヴェトラーナに手を振った姉の車が立ち去ると、アルタンは人がいるとも思えない廃れた外観をした店の、ぶ厚いドアをノックした。
「ここは僕の親方の奥さんがやってる店なんだ」
ドアが開くのを待つ間に、アルタンはスヴェトラーナにそう説明した。
「いい人だから、大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
どきどきしながら待つこと1分ほどして、ドアが重たい音をたてて細く開いた。
「だれ?今日は休みよ」
「奥さん、アルタンです。例の子供を連れてきました」
「ああ、来たのね。この子がそうなの」
「そうです」
「お入り」
中に入り、ドアが閉まると真っ暗になった。灯もつけないまま、女性は奥へ歩いていく。手探り足探りでついて行くと、廊下の奥のドアから灯がもれており、男たちの話声がした。
「あなた、入るわよ」
女が声をかけてドアを開ける。中には四人の男が車座になって絨毯の上に座っていた。八つの目がじろりと三人を見る。その目の鋭さに、スヴェトラーナは思わず後じさりをした。
「その子か。お前が言っていたのは」
「そうです」
アルタンがうなずいた。
「いくつだい」
「11歳です」
「そうか。いい年ごろだな」
一番奥に座っていた男が立ち上がり、スヴェトラーナの前に仁王立ちになった。
「マントを外しな」
スヴェトラーナは、反射的にマントの上から身を守るように身体を抱きしめた。これはよくない人たちだ。逃げなくちゃ、と身を翻そうとしたが、背後にいたアルタンに腕を掴まれた。目の前の男がニカブに手をかけた。
「やめて!」
もがいても、どうにもならない。男は乱暴にニカブをはぎ取ると、アルタンからスヴェトラーナをもぎ取るようにして、車座になった男たちの真ん中へ投げ出した。周囲から驚きの声があがった。
「これは珍しい」
「なんて白い肌だ」
「こんな人種がまだいるとはな」
舌なめずりするような声音に晒されて、スヴェトラーナは震えあがった。なにかが違う。この人たちは、よくない。
「そうでしょう。相当高く売れますよ。いくらで買ってくれますかね」
アルタンが言うと男はにやりと笑った。
「たしかにいい商品だ。だが、この子は家族と来ていたんだろう?お前から足がつくのはまずいな」
男は胸からピストルのような武器を取り出した。アルタンが恐怖の表情をあらわにきびすを返し、ドアに向かって逃げようとした、その瞬間、ぱん、と弾けるような音がした。
「うわっ」
アルタンはくぐもった声を出してのけぞるように倒れた。激しく痙攣する背中から血があふれて、たちまち黄色の服がどす黒く染まっていく。スヴェトラーナは恐怖のあまり、悲鳴をあげることもできなかった。
「安心しな、お嬢ちゃん」
まるで言葉だけで身体を押さえつけてくるような低い声。誰かが呼び鈴を鳴らすと、ドアが開いて屈強な男たちが数人入って来た。
「言うことを聞いていれば、この男のようにはならないよ。お前は高く売れそうだ。いいところに売って、かわいがってもらえるようにしてやる。極寒のロシアに帰るより、ずっと楽しい暮らしが待ってるぜ」
ドアから入って来た男たちは無言のまま、息絶えた弟の身体をシートで包み、たちまちのうちに運び去った。
たすけて。
声も出せずに震えていると、かつかつと足音が近づいて、ドアがばたんと開いた。
「ちょっと、また血で汚したわね」
「ちゃんと片付ける。それより、この子を丁重に閉じ込めておけ。品質は間違いない。あとは値段だけだ。なるべく高く買ってくれる奴に売りたいからな」
女は物も言わずスヴェトラーナの細い腕をつかみ、引きずるように部屋から連れ出すと、廊下の一番奥にあるちいさな小部屋に押し込んだ。ドアが閉まるとすぐに、がちゃがちゃと鍵のかかる音がした。
わたし、売られちゃうんだ。
絶望的な思いで、スヴェトラーナはうずくまった。スアードが、危ない、と言っていた意味がようやくわかった。
「ごめんなさい」
ナランとアルタンに、スヴェトラーナはわびた。命を落としたアルタン。弟を喪ったナラン。どちらも自分のせいだ。もう、取り返しがつかない。どれだけ謝っても、アルタンは生き返らないのだ。
女が食事を運んできたが、とても食べる気持ちになれなかった。
どうなっちゃうんだろう。
スヴェトラーナは、スアードと離れたことを心の底から後悔した。どうせ帰れないなら、みんなと旅を続けたほうがどれほどよかったか。
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