四.ほんとうの空の色(二)
「お久しぶり。この二カ月はどうでしたか」
「体調はいいです。でも」
サカタ医師に聞かれて、ハルトはすこしためらったのち、口を開いた。
「最近、頻繁に夢を見ます」
医師がカルテ画面から目を離し、ハルトのほうを向いた。誰かに似ている、と最初に思った、まっすぐな視線。
「今の生活の中にはない風景ばかり」
「たとえば、どんな?」
「たとえば」
ハルトは、ノートを取り出して断片的な夢の記憶を医師に語った。水辺の風景。自転車で走った土手。誰かの背中。そうしてふりかえってみると、どの夢にもきらきらとした陽光があった。
「あの空気の質感はリアルすぎる。僕は、夢に見る景色を実際に知っていたのだと思います。僕は」
一度感情がほとばしり出ると、もう止められなかった。
「僕は、太陽の光が見たい」
「太陽」
「僕は、安全な太陽の光が降り注ぐ世界を知っている。ここにはそれがない。僕は」
声が震えた。
「僕は、元の世界に帰りたい」
溢れだす感情を押しとどめようと両手で顔を覆ったハルトを見る医師の目に、幽かな情感が浮かんで、すぐに消えた。長い沈黙で感情の爆発を受けとめた医師は、患者の呼吸が落ち着くのを待って、首を傾げた。
「軽い抑うつ状態かもしれないわ」
静かな、低い声。
「農場だから人工太陽光は浴びていると思うけど、ビタミンが不足しているのかもしれない。ビタミン剤と、軽い抗うつ剤を処方しますから、飲んでみて」
先生はいつでも冷静だ。
ハルトは、恥ずかしくなった。涙を見せてしまったことを後悔した。
そういえば病院スタッフにはあまり憂鬱そうな人がいない。みなきちんとメンテナンスをしているのだろうか。メンテナンスをすれば、太陽を恋しがらずに済むのだろうか。それは、幸せなんだろうか。幸せなんだろうな。
「年内にもう一度来てくれるかしら。薬の効果を見たいし、それに」
知らず知らずため息をついたハルトの、軽い失望の表情には気づかないふりをして、サカタ医師はカルテに診察記録を入力しながら言葉を続けた。
「12月に記憶の専門家が来る予定になっているの。そのドクターなら、あなたの苦しさをもっと理解できるかもしれない」
「わかりました」
これ以上話を続けると、ますますみじめな気持ちになるような気がして、ハルトはすなおにうなずいた。
飲むつもりのない処方薬を受け取って会計を済ませると、ハルトはLRTとレールウェイを乗り継いで農場に戻った。
「お帰り!」
農場に入ると、机に向かっていたナツミが顔を上げて笑顔を見せた。
「コロニーに行ったの?」
「そう。病院と、役場に行ってきた」
「いいなぁ、コロニー行きたい」
作業用の防水エプロンをつけながら、知らず知らずハルトの口元がほころぶ。抗うつ剤よりも、ナツミの屈託のない声のほうが、どれほど心を明るくすることか。コロニーで会う「無」に捉われた人々も、子供のころはこうだったのだろうか。ナツミには、いつまでもこの明るさを持ち続けてほしい。
ほっとしたら急に空腹を覚えた。そういえば昼食がまだだった。潅水を終えたら栄養ゼリーを摂ろう。
「ナツミちゃんは、コロニーに行って何をするの?」
「何もしないけど、農場地区とは風景が全然違うじゃない。前に校外学習で行った時、建物が多くてびっくりした。LRTもかっこいいし。いつもと違う風景って、すごくいいよね」
「そうか」
そうだ、とナツミは机に置いてあった白い画用紙に向き直った。
「コロニーの景色にしよう」
「なに?課題?」
「そう」
箱を開いて、ナツミは灰色のパステルを取り出した。
「風景画を描かないといけないんだけど、今日は雨で外が見られないし、雨だけ描いてもつまらないし」
タブレットを開いてライトの外観画像を検索すると、ナツミは足をぶらぶらさせながら、四角い灰色の建物をいくつも画用紙に描いた。
「ハルトも描こうよ」
「僕はレタスに水をやらないと」
「じゃあ、あとでね」
「うん」
潅水を終えるとたちまち出荷の時間になり、ハルトは食事を摂る暇もなく作業に追われた。ようやく仕事を終えて机に戻ると、ナツミはもういなかった。たぶん、友達とゲームをするために部屋に行ったのだろう。描きかけの絵は、白いドームに覆われた町。ドームの中には、しっかりした筆圧で四角い建物がいくつも描かれていた。
ハルトは、ブックスタンドから白い画用紙を一枚取り出すと、作業台の上にそれを置いてしばらく眺めたのち、青いパステルを手に取った。
画用紙の上から下へ、薄く塗った色を重ねていく。手が、自然に動いた。
「そうだ。青だ」
空は、かぎりなく澄んだ
ハルトの脳裏に、色を表現する言葉があふれた。
そうだ、僕は。
僕は、色彩を——
「わぁ、すごい」
背後からナツミが叫んだ声で、ハルトは現実に引き戻された。
「これはどこ?宇宙?」
ナツミは目をきらきらさせてハルトの絵を見ている。
「これは——」
ハルトは何といえばいいのか少し迷って、だがやがて、懐かしさを隠しきれない声で答えた。
「これは、ほんとうの空の色だよ」
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