七.雲と太陽(三)

 マーシーは通信機を自作し、数日かけてヨッピーと連絡を取った。ヨッピーからホンコンの仲間たちに打診したところ、ウランバートルへの移動手段を持っているらしい支援者が見つかった。7月半ばのことである。

「さすがだ、ヨッピー」

 タバちゃんがうなる。

「顔が広いな」

「相手と話をつけてるってさ。詳しくはこの連絡先とやり取りしてもらえばいいらしい」

 ヘッドホンをつけたまま、マーシーがほっとした表情でグリアンを見上げた。どうやら移動手段が確保できそうだとわかり、グエンとグリアンが今後の動きについて細部を詰めていると、ドアが開き、港の小屋から食糧などを運んできたハルトとユッスーが戻ってきた。

「博士、今日の紫外線量はどのくらいですか」

 二人の服が汗で塗れている。

「インデックスは13だ。だいぶ下がったな」

「ハルトが、前よりも紫外線量が下がってる気がするって言うんです」

 ほう、とグエンがハルトを見る。

「たしかに、ハルトが来た頃は17くらいだったから、相当下がってはいるが」

「空気が、今までと違う気がするんです」

 ハルトがグエンに告げる。

「肌が焼ける感じがしなくて、空気も軽やかな気がします」

「いきなりシールドを脱いだから、ぎょっとしたぜ」

「すみません」

 額の汗をぬぐいながら、ハルトが笑った。

「あんまり暑かったから」

「UV-Cが減っているのかもしれないな」

 グエンはそう言うと、棚から小型の測定器を取り出した。

「分析してみよう。ハルト、一緒に来てくれるか」

 ハルトとグエンは指令室を出ると、シールドを被って外に出た。空は厚い雲に覆われているが、雨は落ちていない。紫外線を分析すると、UV-Cの値がほとんど出なかった。インデックスは13を示しているが、スペクトラムはUV-Aに偏っている。

「なるほど」

 グエンがうなずいた。

「上々だ。この島でこれだけ下がれば、いつクラウディが停止しても大丈夫だな」

「それと」

 ハルトが遠慮がちにグエンに告げた。

「海藻って、今までありましたっけ」

「海藻」

「桟橋の下に海藻の群れがあるんです。今まで僕は見たことがなかったので」

「見に行こう」

 二人は、崖を下って港に出た。桟橋の下に打ち寄せるちいさな波に、赤い水草の塊が揺れている。

「これは、初めて見たな」

 グエンの声が上ずった。

「なるほど、我々よりも植物のほうが敏感だ」

「どこに隠れていたんでしょうね」

「今までは塊になるまでに育ちきれなかったのかもしれない。もしかしたら」

 グエンは崖を見上げた。

「陸上の植物にも、変化が現れるかもしれないな」

 グエンが、小屋にあった棒を使って海藻を引き上げ、ハルトはそれを手に取った。フェイスシールドを上げて顔を寄せる。子供のころに浜でかいだ、なつかしい香りがした。


 夕食後、ハルトは指令室の片隅で、水槽に浮かべた海藻をスケッチしていた。ぷつぷつと、赤子が呟くようなちいさな泡をどう描こうかと、描いたり消したりを繰り返していると、グリアンが夜勤のチャーリーと一緒に指令室に入って来た。

「浴室が空いたから、使うといい」

「ありがとうございます」

 濡れた髪をタオルで乾かしながら、グリアンは海藻を眺めた。

「初めて見た」

「そうなんですね」

 ハルトは、手元を照らしていたペンタブレットのライトを切った。

「僕は海の傍で育ったので、この香りはとてもなつかしいです」

「なつかしい、か」

 グリアンは、モニターに映し出されたままのハルトの絵を見ながらつぶやく。

「ハルトは、そういう感情が自然に浮かぶんだな」

 ハルトが、怪訝な顔でグリアンを見上げた。

「先生は、そういうことがないんですか」

「心理という学問として、そういう感情があることは、理解してる」

 グリアンは薄く笑う。

「でも、自分の感情としてそう感じたことは、ないな」

「故郷の家族とか、景色とか、そういうのは」

「俺は物心ついたときにはもう施設にいたからね。家族のことはまったく記憶にない。トーキョー特別区の下町のようなコロニーで育ったが、そこは無機質で、部屋の景色しか記憶はないな」

 グリアンは、困惑の表情を浮かべるハルトを見た。

「ハルトにも、婚約者がいたんだろう」

「はい」

「なつかしい、と思うのか」

「会いたい、と思います」

「会いたい、か」

 それなら俺にもあるかもしれないな、とグリアンはつぶやいた。

「先生は」

 ハルトは、少し迷いながら尋ねる。

「サカタ先生とお付き合いしていたんですか」

「ミサキから聞いたのか」

「まさか」

 ハルトはあわてて首を振る。

「サカタ先生が、警察に事情聴取をされたって聞いたから、もしかしてそうかなって思っただけです」

「ああ、そうか」

 グリアンはうなずいた。

「そうだな。交際して5年くらいになる。もっとも、一緒にいた時間は長くない。俺はほとんどニッポンにいないから」

「サカタ先生と一緒にいた時間を、なつかしく思うことはないんですか。いまどうしてるかな、とか思ったりは」

「なつかしく」

 グリアンは、ゆっくりとその言葉を反芻して、少しの間考えていたが、やがて、いや、と首を振った。

「ないな」

 首にかけたタオルを右手でつかむ。

「会って話していれば楽しい。一緒にいるのは心地いい。離れている時に、俺も男だから、恋人の身体が欲しいと思うことはある。でも、なつかしい、というのとは違う気がする」

 ハルトの隣に腰をおろし、グリアンは水槽を見たまま静かに言葉を続けた。

「ハルトが羨ましい」

「僕がですか」

 ハルトは、なんでまた、という顔になる。

「ハルトの絵には、なんというか、そういう情感を感じるんだ。そういう「気持ち」を持てて、しかもそれを表現できるのは、すごいことなんだ」

「先生には、ないんですか」

 グリアンの目を見ながら、ハルトが問う。

「気持ち、とか、思い、とか」

「俺には、自分の感情がわからない」

 言葉に詰まったハルトの横で、グリアンは首を振った。

「嬉しい、とか、悲しい、とか、そういう感情の揺れのようなものが、どうもぴんとこないんだ」

 ハルトの絵を黒い瞳に映したグリアンの横顔は、淡々とした表情。

「施設では、とにかく自分が笑ってさえいれば周囲の大人は安心していた。おとなしくしていれば、大事にしてもらえた。だから、とりあえずいつも笑って、機嫌のよさそうな顔をしていた。そうしながら、大人を観察していた。どうすれば自分が得をするのか、いつもそれだけを考えていた気がする」

 施設で育つのは珍しいことではない。子供たちへの社会的擁護は行き届いており、奨学金を得て大学に通う子供も多かった。

「特段自分が不遇だとは思わない。環境にも恵まれたほうだと思う。だから、俺はなにか、ひととしての資質に欠けているんだろうな」

「そんな」

「まわりの子が、夜中に親を恋しがって泣く。俺はそういう子を慰める。そうするのが得だからだ。でも内心は、馬鹿じゃないかと思っていた。いない者を欲しがったって、戻って来やしない。それよりは、ここでうまくやったほうがいいのに、ってな。そんなだから、相手の気持ちを読むのは早いと自分でも思っている。相手が心地いいようにふるまっていれば、面倒なことは起きない。それでいいと思っていた」

 それが、ミサキに会って変わった。ミサキは媚びない。いつもまっすぐに相手を見て、相手に必要なことを言う。たとえ自分が傷ついても。生まれて初めて、自分の表情が虚構に思えた。じゃあ本当の自分は何だ、と言われても、わからなかった。

「ミサキとは、それが知りたくて付き合ってたようなもんだ。交際の理由も、ひどく利己的だったのさ」

 自虐的な笑みが、聡明そうな横顔をゆがめた。

「ミサキの父親がクラウド党の幹部だと聞いていたから、ずっと結婚の話はしたことがなかった。それでもミサキが何も言わなかったから、それも都合がいいと思っていた。でもミサキを手放すのは惜しい気もした。一緒に暮らしたら、俺も変われるかもしれない、という独善的な理由で、ミサキを独占したかった」

 そして、チュプが動き始める。

「もしスーリア党が日の目を見れば、一緒に暮らすチャンスがあるかもと思った。同時に、父親の具合が悪いと聞いて、むしろミサキの親が死ねば解決するかもと思った。そのくらい、俺は情がない。情より先に、自然に計算が動く。自分でもわかってるが、どうにもならない」

 ハルトは、黙ってグリアンの話に耳を傾けている。

「ハルトの絵を見て、ミサキに会った時のことを思い出した。一本気なミサキとちがって、ハルトの絵は穏やかで優しいが、二人とも嘘がない」

「そんなことはないです」

 モニターに映し出された描きかけの絵を保存しながら、ハルトは首を振った。

「表現ですから、計算も嘘もありますよ。特にこの一か月は、ないはずの太陽をたくさん描きました」

「そうだったな」

 グリアンが笑い、ハルトも笑った。

「ハルトなら、ミサキをもっと幸せにできるんだろうな。こんなサイコパスみたいな俺と関わったおかげで留置所暮らしを味わう羽目になるなんて、ミサキは不幸極まりない」

「そんなことはないです。絶対それは違います」

「俺たちはハルトを巻き込んでしまったが、ハルトはなんのために動いてくれているのかと思ってね」

「僕は」

 ハルトは少し考えた。

「まずは自分が太陽と青空を欲しいから。それと」

 少し恥ずかしそうに言葉を続ける。

「そういうふうに、必要とされていると感じられるのが、嬉しいからかもしれません。茜を——婚約者をなくして、生きる意味がわからなかった時と比べると、今は生きることが自然になりました。それは、誰かに必要とされていると感じられるからかもしれません」

 みなさんのおかげです、とハルトは笑った。

「誰かのために、か」

「先生だって、スーリア党の皆さんから必要とされているんでしょう。それと、サカタ先生からも。サカタ先生は、いまも先生を信じて待ってると思います。僕だって」

 ハルトは時を遡る目になった。

「茜のためだけに茜といたわけじゃない。僕が心地よかったから、一緒にいたんです。茜もそうと信じたから、一緒にいられたんです。誰だってそうじゃないですか。ご自分の感情は感情として、サカタ先生が幸せだと思えるならそれでいいんじゃないですか」

「そうか」

 グリアンは水槽の中で眠る海藻に目をやった。

「俺は、自分のためにしか生きようと思ったことがなかったが。ミサキがそれでも幸せだと思ってくれているなら、それを裏切らなければ」

いいのかもしれないな、とグリアンはおおきく息を吐いた。

「再会したら、まだミサキが待っていてくれればだけど、ミサキが幸せだと思えるために俺にできることを考えてみる。自分の感情はわからなくても、それなら俺にも、ミサキにできることがあるのかもしれない」

 ありがとう、と目をあわせずグリアンが言った。ハルトは黙ってうなずき、水槽のライトを消した。


 NC475年7月末、グリアンとハルト、それにタバちゃんの三人は、ふたたびカニエラの調査船に乗り、ユーラシア大陸のホンコンへ向かった。そこから、グリアンは支援者の助けを借りてウランバートルへ旅立った。

 ハルトはタバちゃんとともにホンコンに残り、支援者のもとに隠れ住みながら「イディ」と名乗り、SNSを使って太陽と青空の絵を世界に向けて発信した。

 平原を照らす太陽。草原に映る山稜の濃い影。茜色の夕焼け。雨上りの虹や天使の梯子。

 光と影を描くイディの絵はまたたくうちに世界に広がり、人々の太陽への憧れを喚起した。各地のデモンストレーションで、イディの絵を掲げて太陽と青空への憧れをアピールする人々が続出した。

 ニッポンで暮らすヨウコも、SNSを通してイディの青空の絵を目にした。

「ハルトくんだ」

 ヨウコにはすぐわかった。ナツミに見せると、ナツミは泣いた。

「よかった、生きてた。ハルト」

「スーリア党が勝ったら、きっと帰ってくるよ」

「あたしにも選挙権があればいいのに」

 ナツミが悔しがる。

 太陽の、青空への憧れを描いたイディの絵は、人々を次々につないでいく。太陽の光を希求する思いのもとに、新しい文化の潮流が生まれようとしていた。

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