七.雲と太陽(四)
サラディンたちの一行は、7月半ばにウィグルを出て、モンゴル行政区に入った。
「このあたりは、まだ出入りがしやすそうだ。ウィグルから逃げてきた奴らも相当いて、賑わってるみたいだぜ」
夜明け近く、モンゴルに入って最初のコロニーへ偵察に行ったオマールが、やれやれという表情で一行のもとに戻って来た。
「助かったな」
サラディンもほっと息を吐く。
「しばらくは、モンゴルで過ごすとしよう」
薄明の中、皆がコロニーの近くのシダの草原にテントを張っていると、キッチンカーから派手なくしゃみの連発とナユタの笑い声が聞こえる。やがて軽やかな足音とともに、ナユタが手にちいさな草を持って走ってきた。
「サラディン」
顔に巻いていたストールが外れて、透けるような白い頬に金の髪が張り付いている。
「見て」
ストールを巻きなおしてやろうと手を伸ばしたサラディンの顔に、ナユタは背伸びしてやわらかな草の葉を近づけた。生まれて初めてのさわやかな香りに鼻腔を刺激されて、サラディンは目を丸くする。
「
サラディンの表情を見て、ナユタが笑った。
「こんな香りがする草があるのか」
「そこの窪地にたくさん生えてたの」
仲間たちも集まって、交互に香りを嗅いでは驚きの声をあげる。グスタフが無言でカメラを手にすると窪地に向かう。他のメンバーも後に続いて、たちまち朝露に濡れた窪地に寝転んでの撮影会となった。
「ストールを巻け」
サラディンに注意されて、ナユタはあっそうか、とあわててストールをかぶった。
「最近肌が痛くないから、忘れちゃった」
「そうか」
たしかに、ここ数週間で紫外線量は急激に下がっていた。サラディンが測定器を出して計測すると、インデックスは5。驚くほど下がっている。
「たしかに、これなら日よけはなくても大丈夫だな」
ナユタの肌感覚の正しさに感心する。
「いったい、どこに隠れていたんだろうな」
産毛に覆われたやわらかな若葉をしげしげと眺めて、サラディンはつぶやく。種のまま、千年の時を待っていたのか。それとも、シダの葉陰で紫外線に焼かれぬよう必死に生きていたのか。
「たいしたもんだ」
計測器を車に戻してカメラを手にすると、サラディンは、やわらかな朝霧を背景に、ちいさな手が持つちいさな若葉を写真に収めた。
一行は、ゴビ砂漠の北縁をぐるりとめぐって東へ進む。サラディンは、コロニーに入る都度仲間のもとを訪れ、情報を収集した。コロニーに暮らす仲間たちは、サラディンに、スーリア党を支持する人々が増えていること、グリアンがいまだ行方不明であること、世界中で青空を求めるムーブメントが盛んになっていることを口々に告げた。
8月に入ると、サラディンは一行を率いて一路ウランバートルに向かった。モンゴルに入ってからの旅は順調で、ウィグルで味わったような不自由はない。紫外線量が下がってからは、日中に移動することもできるようになり、移動距離と撮影の機会と、両方が増えた。一行は砂漠や、そして最近はシダの草原のなかで新しい草の姿を撮影しながら、旅を続けた。
状況が一変したのは8月6日。その夜、モンゴル行政区中央部にあるアルタイのコロニーに入ったサラディンは、前に訪れた町で教わった仲間の家を訪れた。そこは普通の家で、チャイムを鳴らすと女性が顔を出し、ご主人を、と言うと取り次いでくれた。ところが顔を出した男性は、サラディンが小声で名乗ると
「どちらさま?」
と尋ねてきた。家を間違えたかとサラディンは思ったが、男性は、
「うちは違うよ」
と一人で話し続ける。
「住所は?ああ、町の名前が似てるから間違えたんだな。送ってやるよ」
そう言って一度家の中に戻り、妻に断って外に出ると、サラディンを伴って通りを歩きだした。そして、周囲に人影がないことを確認すると、低い声でささやいた。
「あんた、行き先を知られてるぞ」
「なんだと」
「誰かに後をつけられてるんじゃないか」
モンゴル行政区に入ってから、サラディンは三か所のコロニーを訪れた。そのいずれもが、公安の家宅捜索を受けたのだという。
「ここ数日の話だ」
男は、用心深く振り返りながら言葉を続ける。
「俺は、公務員なんだ。スーリア党の支持者だと知れたら職を失う。子供もまだ小さいし、路頭に迷うわけにはいかない。正直、あんたが来たら困ると思ってた」
「すまん」
サラディンは唇をかんだ。いったいどこで、誰が行動を監視していたのか。
「申し訳ないが、俺が話せるのはこれだけだ。次の行き先を決める前に、片をつけておいたほうがいいぞ」
「わかった。情報に感謝する。迷惑をかけてすまない」
男は、広い通りを渡って細い路地をいくつも通り抜けると、広場の前で、
「あんたが言ってる住所はこのへんだと思う。そのへんの店で聞いてみるといい」
と言って立ち去った。サラディンはしばらくそこに立って、男の後を追う者がいないか確かめたが、それらしい人影は見当たらなかった。
広場の向かいにあったパブに入り、蒸留酒を注文したサラディンは考えをめぐらせた。道中不審なキャラバンに行き会うこともなかった。モンゴルに来てからは、コロニーに出入りする際も監視されていると感じたことはない。だが、そうなると。
サラディンは、キャラバンのメンバーを疑うことはしたくなかった。みな、何年もともに旅を続けた仲間たちだ。そう思う傍らから、ひとりひとりの顔が浮かぶ。
オマールとサムスンは旅の最初から一緒だった。互いの素性も知っている。これは除外していいだろう。ナユタとタンブルは論外だ。スアードとナランは旅の途中から一緒になった。シンディはオマールの縁者。あとはグスタフ、ウージュ、ロベルト、エメリク。自らやってきたのは——。
そこまで考えて、サラディンは首を振った。疑いたくないと思いながら疑念が止まらない自分が情けなかった。だが、このままではグリアンと連絡が取れない。
翌々日の夕刻、サラディンたちはテントを畳んで出発した。撮影をしながらゆっくりと進んだ次のキャンプ地で、サラディンはふたたびコロニーを訪れた。いつものようにコロニーを入るとすぐにパーキングに車を入れる。それから、タブレットの電源を入れてマップを開き、1キロほど歩くと電源を落とした。細い路地に入って通りを伺っていると、ゲートのほうから見知った顔が歩いてきた。
シンディ。
シンディは、タブレットを片手に歩いている。いかにも店でも探しているようなふうで、近くまで来ると周囲を見回した。サラディンには気づかず、店を一軒ずつのぞいている。
まさか。
シンディは、早い時期からの仲間だ。しかもオマールの甥と聞いている。ざわつく胸をなだめながら、サラディンは素早く路地を抜けて反対側の通りに出ると、急ぎ足で車に戻り、キャンプに帰った。仲間たちはほとんど自分のテントで思い思いの時間を過ごしている。キッチンカーを訪れると、オマールはパン種の仕込みをしているところだった。
「ちょっといいか」
サラディンが声をかけると、オマールは手に着いた粉を払って外に出てきた。
「シンディはどこにいった」
「ああ、町に行ったよ」
オマールが笑う。
「最近多いんだ。気晴らしがしたいんだろう」
若いからな、と言ったオマールに、サラディンは声を潜めてこの日の出来事を伝えた。
「俺は、このところずっとシンディに後をつけられていたらしい」
オマールは絶句した。
「俺たちの行動が、公安に筒抜けになっている可能性がある」
なんてこった、とオマールは泣きそうな顔になった。
「最近よく出かけるなとは思ってたんだが」
「最近なのか」
「そうだ」
サラディンの問いに、オマールはうなずいた。
「モンゴルに来てからだ。その前も遊びの頻度は多かったほうだが、このところ確かに、あんたの出かけた後に出ることが続いてた」
気づかなくてすまなかった、とオマールがうなだれる。
「あんたのせいじゃない」
オマールを慰めて、サラディンは首を振った。
「ともかく、対策を考えないといけない。とりあえず、次にシンディが追ってきそうになったら引き留めてくれないか。30分でいい」
「わかった」
マンダルゴビのコロニー近くに一行がテントを張ったのは、8月11日。サラディンはオマールに出かけることを告げてコロニーに向かった。
「オマール、カードを貸してくれないか」
サラディンが立ち去ってすぐに、シンディがやって来た。
「ありゃ、今日は駄目だ。俺たちも買い出しに行かないといけないからな」
「なんだ」
シンディは残念そうだ。
「仕方ないな。銀の粒を使おうかな」
「なんだ、急ぎの用事かい?」
「いや、急ぎというわけじゃないけど」
「じゃあ、スアードのかわりに俺の買い物を手伝ってくれよ」
「ああ、いや、大丈夫だ」
「そう言わずに」
オマールは片目をつぶった。
「どのみち町に入れる車はあと一台しかないんだから。俺が買い物に行ってる間に、遊んできたらいいさ。支度をするから、20分ほど待ってな」
オマールがシンディをひきとめている間に、サラディンはタブレットを持たずに町へ入った。あらかじめメモをしておいた仲間の住所を商店などで訪ね歩きながら、市場の北端のちいさな青果店に着く。小屋建ての店は繁盛している様子で、キャラバンらしき客も多かった。店主らしき人物に目星をつけ、サラディンは野菜をいくつか手にとると声をかける。
「店主さんか」
「そうだよ。カードかい、粒かい」
「サラディンと言う」
店主が、目を丸くした。かすかに怯えた表情。サラディンは、他の客に聞こえないように小声で話す。
「ずいぶん迷惑をかけたらしいな。申し訳ない、あとをつけられていたようだ。理由は排除したから大丈夫だ。グリアンと連絡を取りたい」
「銅しかだめだよ」
店主が首を振る。
「本物なら両替してやってもいいが。見てやるから、ちょっとこっちに来てくれ」
そう言ってサラディンを店の奥に誘った。
「忙しいところをすまん」
二人きりになったところでサラディンが言うと、店主は、本当に大丈夫なんだろうな、と不安そうにサラディンを見上げた。
「大丈夫だ。後を追って来た奴は仲間が引き留めている。ここにはタブレットを使わずに来たから、むこうは知りようがない」
「ならよかった」
店主はようやく表情を緩めた。
「アルタイの仲間は無事か」
「大丈夫なようだ。公安が訪ねてきたようだが、道を聞かれただけだと言ったら事なきを得たらしい」
「よかった」
サラディンは、心の底からほっとした。
「グリアンから、なにか連絡は入っていないか」
「ホンコンの仲間が手助けをして、ウランバートルに入ったそうだ。仲間がかくまっている。あんたが行くのを待ってると思うぞ」
「そうか」
サラディンはうなずき、店主に告げた。
「グリアンに伝えてくれ。明後日13日の18時、前に会った店で会いたいとサラディンが言っていた、と」
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