三.砂漠の子

「そろそろ夜明けだ」

 運転席で大きく伸びをして、シンディは無線のスイッチを入れた。ライトが切り裂く漆黒の闇が次第に灰色を帯びて、大地の起伏だけが濃い影のまま残っている。運転席横のちいさなモニターに映った眠そうなサラディンに、シンディは呼びかけた。

「ねぐらを探さないか」

「そうだな。このあたりならキャンプができそうだ。二時の方向にある砂丘の下まで行ってみよう」

「オッケー」

 シンディは振り返り、リムジン型の後部座席でレシピ本を読んでいたオマールに腕を上げて合図する。オマールがそれに気づいて顔を上げた。

「そろそろかい」

「ああ」

「じゃあパンを焼くかな」

 座席の後ろにあるキッチンに行こうと立ち上がったオマールが、おい、と窓の外を指さした。

「子供がいるぞ」

「冗談はよせよ。こんな砂漠の真ん中で」

「いや子供だ。止めてくれ!」

 オマールの剣幕に押されるように、シンディはブレーキボタンを押した。停止前からドアの開閉ボタンを連打していたオマールは、車が止まると同時に砂地へ飛び出した。

「どうした」

 モニターからサラディンの声がする。

「オマールが、子供がいるって言うんだ」

「寝ぼけてるんじゃないか」

「いや」

 車の外を見たシンディは、真顔になった。

「どうやらオマールだけの夢じゃなさそうだ」


 オマールの後について運転席から外に出たシンディは、薄明の中に立つ細い小さな影を認めた。近づくと、ぼろぼろの服を着た少女が、裸足でオマールの前に立っていた。

 精霊ジンじゃないのか。

 現実主義者のシンディがそう思ったほど、少女はこの世の者とは思えない姿をしていた。

 二つに編んだ長い金色の髪。透けるように白い肌。ゆらりと揺れる身体は儚いほどに細くて、瞳の色も極端に薄い。

「あんた、そんな恰好で砂漠にいたら焼け死んじまうぞ」

 ぼうぜんとするシンディの隣からオマールが話しかけると、少女は首を傾げ、聞いたことのない言葉を返してきた。我に返ったシンディが翻訳アプリを起動させ、

「どこから来たんだい」

 と話しかけると、少女はふたたび言葉を発したが、翻訳アプリは「変換不能」とシンディに告げた。

「どうした」

 Uターンしてきたサラディンが車から降りて、やはり目を丸くする。

「よくわからないが、一人でいたようだ」

「なら、ともかく連れて行くしかないな」

 サラディンは少女に向かって声をかけた。

「一緒に来い。じき夜が明ける。そんな恰好じゃ一瞬で干物になっちまうからな」

 車を指さすと、少女はことを理解したのか、うなずいてあとをついてきた。

「シンディの車に乗せてやれ。スアードがいるから、男ばかりの車よりは安心できるだろう。オマール、何か飲ませてやれ」

「あいよ」

 ふたたび砂丘に向かって走り出した車の中で、騒動に目を覚ましたオマールの妻スアードが少女を薄布でくるみ、オマールは乳粉を溶かしたミルクにバターと黒砂糖を少し入れて少女に差し出した。

「きれいな子ねぇ」

 おとなしくバターミルクを飲んでいる少女を、スアードはうっとり眺めている。

「言葉は通じないの?」

「翻訳機は変換不能だってさ」

 答えながら、シンディはバックミラーに映る少女から目を離すことができずにいた。

 あれは、ルノワールの「レースの帽子の少女」だったか。古代に描かれた、紫外線に焼かれる前の人物画が、額縁から抜け出してきたようだ。現代に、こんな色素の薄い人間が生存していたとは驚きだ。そもそもなぜあんな恰好で砂漠にいたのか。わからないことだらけだが、言葉が通じないからどうにもならない。

「どうやらここでキャンプを張れそうだ」

 モニターからサラディンの声がした。砂丘の手前に平たい窪地があった。南からの紫外線を遮るのにちょうどよい場所だ。いままでも多くのキャラバンが使ってきた形跡がある。安全な場所ということだろう。

「これはいいな」

 厚い雲が夜明けの白さを見せ始めた中、シンディもゆっくりとサラディンの後ろに車をつけた。

「しばらく滞在してもいいかもしれん。拾い物をして少し時間を食っちまったから、早いとこ飯にしよう」

「準備はオッケーだぜ」

 スープをかき混ぜながら、モニターに向かってオマールが応じた。


 サラディンたちは、砂丘の窪地にそのまま留まり、30キロほど西のコロニーに買い出しに行きがてら、少女に関する情報がないかを探った。あれだけ目立つ外見であれば、少女の存在が話題にならないはずはなく、それが行方不明になればなおさらだと思われたが、そのような様子はない。このコロニーの周囲100キロ圏内に人の住める場所はなく、周辺には最近車が通った形跡もない。ここ以外の場所から少女が来たとは考え難かったが、なにも手掛かりは得られなかった。

「実はやっぱり精霊ジンじゃないのか」

「バターミルク好きのジンだな」

 夕食の片付けを終えたオマールが腕組みして考えているところに、ワインを楽しんでいたロベルトが応じた。

「北極圏あたりに行けば、ああいう人種がまだ残ってるのかね」

「聞いたことがないな」

 少女を拾ってから5日が過ぎた。

「この町には手掛かりがない。拾得物は警察に渡すのが順当だが、どうもあの子にとっていい結果になる気がしない」

「そうだよ」

 サラディンの言葉に、卓上コンロでスパムを炙っていたウージュがうなずく。

「あんな子をコロニーに連れていったら、カメラの前に晒されて好奇心に貪りつくされるのが目に見える。かわいそうだ」

「たしかにな」

 闇の中に揺れるコンロの灯を見ながら、サラディンもうなずいた。

「このまま連れて行くのが一番いいんじゃないか」

 シンディが言うと、サラディンは、それしかないかもしれんがなぁ、と天を仰いだ。

「それで万一あの子に家族がいれば、俺たちは誘拐犯になっちまうぞ」

「誘拐じゃなくて、保護だ」

「シンディはあの子と離れたくないんだろ」

 けっけっけ、と灯の向こうの闇から笑ったサムスンの言葉に、シンディは顔を赤くした。

「さっ、サムスンだってそうだろ」

 キャラバンのメンバーがみな、少女を手放しがたく思うようになっていたのは事実だった。愛らしい外見もさながら、スアードのストールにくるまって、物おじせずメンバーのあとをついて回り、料理や撮影の様子を好奇心いっぱいに見ている様が、斜に構えた暮らしをしているメンバーの心情をやわらげているのかもしれない。だが、それで面倒なことに巻き込まれると、今の暮らしが立たなくなる。

 メンバーは、それぞれここに至った事情は異なるものの、コロニーでの暮らしと住民カードを捨て、納税もせず放浪している、いわば非合法生活者だ。政府が彼らの存在を見て見ぬふりしているのは、税金はおさめないが迷惑もかけない存在であればこそ。なにがしかの一線を越えればたちまち取り締まりの対象になる。ちょっとしたことでコロニーの住民ともめごとを起こしたせいで一網打尽にされ、まるごと収監されたキャラバンも無数にあった。

 拠点を持たないのは、シャッターチャンスを狙うためであると同時に、様々なコロニーとの関係をできるだけ希薄にしておきたいという思惑もあった。関係が密になれば、それだけ悶着の素も多くなるからだ。

 極力リスクは負わない。

 それがサラディンの方針だったが、この場合、やむを得ないのかもしれない。

「もう少し事情がわかればいいんだが」

 少女の言葉は複雑な母音と子音が組み合わさっており、発音をまねることはおろか、聴き取ることすら難しかった。オゾン層の破壊によって人口が激減したあと、人類は共通言語で話すようになった。共通言語は古い英語をベースにしたシンプルな文法で成り立っており、二千語の単語でほぼ意思疎通ができる。地域によっては、共通語と併用して土着の言葉を使っているが、これほど複雑な言葉が残っているものだろうか。そもそも、翻訳機が聞き取れないとはどういうことなのか。

「政府も把握していない未知のエリアがあるなら、ぜひ行ってみたいものだな」

「ほんとだなぁ」

 シンディもうっとりとつぶやいた。

「連れて行くなら、名前がないといかんが、聞き取れないんだよなぁ」

 サムスンが腕組みした。

「ベトラーだかトラーナだか、たぶんそれが名前だと思うんだが」

「いずれにしても呼びにくい。呼び名をつけてやろう」

 グラスの氷をからん、と鳴らしてサラディンは闇夜を見上げた。

「ナユタ」

 つぶやきは、誰の耳にも届かず虚空に消える。そのまま目を閉じて、サラディンはひとり薄い唇に笑みを浮かべた。


 二日後、日暮れとともに一行はキャンプをたたみ、少女を連れて旅立った。出発の前に、サラディンは少女に告げた。

「何を言っているかわからないだろうが、一応話しておく。俺たちは旅をする集団だ。とりあえずここに置いといたら焼け死んじまうから連れて行くが、別れたくなったらいつでも言え」

 少女は、首をかしげてサラディンを見上げている。

「それには、呼び名がないと不自由だ。あんたの言葉はさっぱりわからないから、とりあえず仮の名前をつけさせてもらう」

 サラディンは透き通ったガラスのような水色の瞳をまっすぐに見下ろした。

「ナユタ」

「ナユタ?」

 少女が復唱する。サラディンはうなずいて少女を指さした。

「ナユタ。とりあえず、それがあんたの名前だ。スアード、この子に言葉を教えてやってくれ」

「いいわよ」

「じゃあ、出発だ。今夜は北上するぞ。山地を迂回して、冬までにキルギスに向かう」

 おう、と仲間たちの声。おいで、とスアードが少女を手招きすると、少女は最初に会った時と同じようにおとなしくついてきた。

「ナユタ、今日からあなたは私たちの仲間よ。早く言葉を覚えてね」

 スアードが、町で買ってきた子供用のマントとニカブを少女にかぶせた。

 車はゆっくりと動き出し、次第にスピードを上げていく。少女は車窓に目を向けた。暗い窓に映るのは、頭からすっぽり緑色の布をかぶったちいさな子供。

 薄水色の瞳に灰色の影が落ちた。

「ナユタ」

 つぶやいて、ナユタはぎゅっとニカブの裾を握りしめた。

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