三.ハルト(二)
年明け早々に病院を出て、新しく始まった農場での暮らしは、思った以上に心地よかった。
ササヤマ家は、世帯主のタカシ、妻のアカリ、夫妻の孫のナツミの三人暮らし。農場経営とアパートの家賃収入で生計をたてている。農場に雇われているのはハルトひとりだったから、一家は次第にハルトを家族のように扱うようになった。アカリはしょっちゅう仕事帰りに手料理を持たせ、今年小学六年になった孫娘のナツミは学校で習った勉強を教える。この学びが、たいそうハルトの役に立った。
10カ月たった今、ハルトは農場の仕事をほとんど覚え、会話も滞りなくできるようになっている。この世界のことも、ナツミに教えてもらいながら理解できるようになってきた。そのかわり元の記憶が曖昧になることが不安で、ハルトはナツミから教えてもらった文字を使い、ノートにできるだけ多くの違和感を書きとめた。
元の世界に戻ることは無理だろう、という気はしているが、それでもハルトは自分の脳裏にある記憶をとどめておきたかった。それを喪うことは、人生の一部を喪失することに等しいような気がしたからだ。
「おまたせ」
レタスの出荷を終えて、ハルトは人工太陽光の下で宿題に取り組んでいたナツミに声をかけた。
「今日は何を教えてくれるの」
「ちょっと待って。いまニッポン語をやっちゃうから」
ナツミは理科と算数が得意で、満点を取れて当たり前と思っている。反面言語の科目が苦手で、読み書きに関してはハルトのほうが追い越してしまったような具合だ。学校で学ぶ言語は、ニッポン語と共通語の二種類があり、ニッポン語はこの行政区独自の言葉、共通語は文字通り世界共通の言葉だ。
「あああもう、動詞とか形容詞とか、誰がそんなこと決めたの」
今日の課題は、ニッポン語らしい。タブレットをぞんざいに指であしらいながら、ナツミはぶつぶつ文句を言っている。
「話せれば、あとはどうでもいいじゃない。共通語だってあるんだし」
さんざんタブレットにダメ出しされながら宿題を終わらせると、ナツミは、ああおわった、と息を吐き、心底せいせいした表情で顔を上げた。
「今日はね、紫外線のこと。紫外線に三種類あるのは知ってる?」
「わからないな」
この世界には、地球を紫外線から守るオゾン層がない。2000年ほど前から少しずつ減少していたオゾン層が、約1000年前、完全に消失した。人類がCFCなどのフロン類を大量に排出したせいとも、彗星が衝突したせいとも言われているが、本当のところはわかっていない。
オゾン層消失の前後の記録は、いまだに世界のどこからも見つかっていない。「人類史のミッシング・リング」のひとつだ。それより古い記録は紙媒体によって保存されていたが、AD2000年から3000年ころには電子データでの保存が主流となっていたことが原因だと言われている。
AD2500年前後と推測されている。強烈に降り注ぐようになった紫外線の影響で、人々はおそらくほぼ突然、外に出ることができなくなった。人の生産活動は完全に破綻。人類の多くが餓死、あるいは紫外線によって病死した。電子データを保存するためのバックアップクラウドや、そもそも電力を作るなどの活動ができなくなり、大量のデータが損壊、消失してしまったらしい。
ハルトは、そういう知識をナツミから得た。小学校の理科や社会は、気象と紫外線についての項目がほとんどを占めている。生死にかかわる基本的な事柄だからだろう。
「紫外線には、UV-AとUV-B、UV-Cがあってね」
ナツミは、紙の教科書を開いてハルトに図を示した。学習はほとんどタブレットを使うが、教科書は紙製だ。紙の大切さを知るためだそうだ。
「A、B、Cの順に波長が短くなっていくの。波長の長いUV-Aが紫外線のほとんど」
「ふぅん」
「Cは一番危険で、これは皮膚を焼いてガンを生成したりするわ」
「なるほど」
「私のパパとママもガンで死んだの」
「そうなの?」
さらりと言われて、ハルトのほうが動揺した。
「都市より農場は土の照り返しで紫外線が強いから、仕方ないのよね」
「いつ、亡くなったの」
ハルトがおそるおそる尋ねる。
「パパはあたしが4歳のとき。ママは一昨年よ。二人とも皮膚がんがリンパに転移したんだって」
「そうか」
「あたし、紫外線をもっともっと防げる装置を作る科学者になりたいんだ」
「うん」
「小さいころはお医者さんになりたいと思ってたけど、お医者さんは根本的解決ができないもの。クラウディを改良する科学者になって、もっと安全な世界を作りたいのよね」
クラウディは雲を発生させる気象操作衛星のことだ。衛星軌道に配置されたおよそ5000個のクラウディは、対流圏に電気を発生させてアイスダストや厚い雲を作り、雨を降らせて紫外線を防ぐ。人間が暮らせるエリアは、いまのところ北緯30度以北に限られているが、クラウディが改良されれば暮らせるエリアも広がるし、屋外活動もできるようになるかもしれない。
「いい考えだと思うよ」
「そうでしょ?理科好きだし。ニッポン語書かなくていいし」
「それはどうかなぁ」
「えーっ」
ナツミが不満の声をもらしたところで農場の扉が開き、アカリが顔をのぞかせた。
「ナツミ、ごはんよ。ハルト、ナスのみそ焼きを持って帰りなさい」
「はぁい」
「ありがとうございます」
二人同時に返事をし、ハルトが先に立ち上がった。
「ナツミちゃん、ありがとう。また明日ね」
「うん」
うなずいて、ナツミもタブレットと教科書を手早くカバンにしまって立ち上がり、たちまちハルトを追い越して祖母のもとに走っていった。
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