第30話守りたかったのは②

「よかったー、無事だった……!」


 安堵の息をこぼし満足した私は、「あ、ごめんね。さっきの話だけど」と少年を見上げた。


「私たちを傷つけるつもりはなかったっていうの、ちゃんと信じるから安心して」


「! ……信じて、くれるの?」


「信じるもなにも、私を助けてくれたじゃない。それに、アナタからぜーんぜん"敵意"みたいなのは感じないし」


 あやかしの気配はわからないけれど、"悪意"や"敵意"といった感覚には敏感だと自負している。

 実際、高倉さんの"念"から感じた不快感は、未知への恐怖というよりそちらへの嫌悪の方が強かった。

 思えばお葉都ちゃんのときは、そういった私への"負の感情"がなかったからこそ、全然怖くなかったのだと思う。


「そうだ、お話しするのここでどう? いい感じにマットもあって座り心地もいいし。あ、雅弥! 後でこの絵、もとの場所に戻せる?」


「……どうして俺が」


「え? だって私の身長じゃ届かないし。雅弥なら届くでしょ? 新垣さんには私が謝るけれど、元の場所に戻しておいてあげたほうが、絵だって喜ぶと思うのよねえ」


「……相変わらずアンタは自由というか、能天気というか」


 嘆息交じりに首を緩く振って、雅弥が階段を降りはじめる。

 ぱら、ぱらとビー玉のいくつかを落としながら進んで、いまだ面食らったような顔のまま固まる少年に並ぶと、


「このままここにつっ立っているのなら、話は聞かないからな」


「! ごっ、ごめんなさい……!」


 身体を跳ね上げた少年が踏み出し、急いで階段を駆け下りる。

 その行為の危険さを身をもって知っている私は、制止すべく両手を上げて、


「あああいいのよゆっくりで! こけたら危ないから! ……ちょっと雅哉! こっちが聞かせてもらう側なんだから、もっと優しくエスコートしてあげないと……」


「あやかしはアンタと違って身軽だ。コイツは上の手すりから飛び降りて、アンタを受け止めたんだぞ」


「え、飛び降りたの? 裸足なのに……足の裏とか怪我してない?」


「……平気」


 私の眼前まで歩を進めた少年が、ぺたりと膝を折って座りこんだ。

 そして不思議なものでも見るようにしてしげしげと、小首を傾げながら私を見上げ、


「……あなたも、僕が見える人間なのに、優しいね」


「へ? 私は普通に接しているつもりなんだけど……」


「それが、"優しい"ってこと。僕が見える人間は、怯えるか、排除しようとするか……。僕を見て、身体を気遣ってくれる人間なんて、あの人とあなただけ」


 あなたなら、と。少年はその瞳を切なげな期待に瞬かせ、頭を下げた。


「この家を、壊さないで」


「…………え?」


「……お願い」


 戸惑う私の脳裏に、彼をはじめて認識した、廊下での言葉が浮かんだ。

 ――ここは、僕が守らないと。


「……もしかして、ずっとこの家が壊されないようにって守っていたの?」


 だから、人が入れないようにって、"怪異"を起こしていた……?

 訊ねた私に、少年は俯いたままこくりと首肯して、


「……だって僕には、"通さない"しかできないから」


 ぽつりと落とされた声は、自身は無力だと嘆くよう。


「……どうして壊されたくないのか、聞いてもいい?」


 ゆるゆると顔を上げた少年が、懐かしむように双眸を細めて、階段を見遣る。

 つられて私も視線を向けた。

 散らばったビー玉やおはじきたちが、僅かな光を反射して煌めき、なんだか海の水面を思わせる。


「……ここは、あの人の宝物だったから」


 階段下で腕を組み、静観を貫く雅哉の眉が、微かに跳ねたような気がした。


「あの人って……亡くなったお爺さんのこと?」


 問いかけに、少年の肩が薄く揺れた。

 悲哀に満ちた瞳が振り返る。


「本当は、帰ってきてほしい。でも、できないの、知ってる。だから、僕がここを守る」


 決意と哀愁をまとう小さな身体に、玄関先で飼い主の帰宅を待ち続ける子犬の姿が重なる。

 どうにもできない切なさに胸がチクりと痛んだけれど、同じだけ、疑問がわいた。


 ――どうして彼は、この"家"に執着するのだろう。


 可能性として考えられるのは、二つ。

 一つ目は、お爺さんと仲が良く、生前にそうしてほしいと頼まれている場合。

 二つ目は、この少年にとって大切な"何か"が、この建物に存在している場合。


「……お爺さんがこの家を守ってほしいって、あなたに頼んだの?」


 探偵でもない私には、回りくどい誘導尋問なんてさっぱり浮かばない。

 ならばと直球で問うと、少年は「……ううん」と首を振った。


「それじゃあ、この家にあなたの大切なモノがあるの?」


「僕の、大切……?」


 面食らったようにして目を丸めた少年は、数秒して胸をぎゅうと握り、


「大切、だった。あの人も、あの人が愛したこの家も。……ここにあるものが全部、僕には、大切だったんだ」


 その呻きはまるで、今はじめて自覚したかのような。


「僕は、消えちゃいたい」


 眉根をきつく寄せた少年の目じりから、つう、と雫が一筋つたう。


「ずっと、温かかったのに、今はすごく、苦しい。なくなってしまいたい。でも僕が消えたら、ここも、消えちゃう。だから、だめ」


 掠れた声に、ひゃくりあげる音が混じる。


「僕は……っ、僕は、わからない。消えたい、でも、守りたい。だって僕にはもう、それしか出来ないから」


 とうとう両目から涙を溢れさせて、少年はそこで言葉を止めた。

 ――苦しい、消えたい。でも、守りたい。

 その感情には、覚えがある。


 たしか、おばあちゃんが死んだとき。

 葬儀を終えて家に帰ってからも、待っていたのはそれまでとなに一つ変わらない、"いつもの"空間で。

 その中に遺された愛おしい記憶の残滓ざんしを見て、もう二度とあの声も姿も、ここには戻らないのだと痛感させられた。


 どんなに願おうと、どんなに求めようと。

 私の存在するこの世界は、あの大切な温もりを失ったまま。

 逃れられない苦しさに、いっそ息を止めてしまいたかったけれど、私の手元にはずっと持ち続けると誓った"お守り"があったから。


 指先をショルダーバッグに滑らせる。

 触れた鈴が、微かにりんと囁いた気がした。


「あなた、お爺さんが大好きなのね」


 涙を落とす声が、ピタリと止んだ。

 私は言葉を重ねる。


「私もね、すごく大好きな人を亡くしたの。その人と過ごした場所って、離れがたいの、わかる。温かい過去の残り香に浸っていられるし、その人がいたっていう、証明になるから」


 けれど、と。

 私は傍らに置いていた、この家をひっそりと見守っていた絵へと視線を滑らせた。


「愛おしければ愛おしいほど、寂しくなるのよね。だってその人を想うたびに、"もういない"って、再確認させられるんだもの。苦しくなる一方よ」


 顔を戻し、そっと少年の指先に触れる。

 拒絶のないことを確認して、力いっぱい握りしめた。


「けどね。私達は、生きているの。無理やりにでも前を向いて、自分の足で踏ん張るしかないのよ。縋りたい過去は、思い出にしなくちゃ。あなたが本当に守らないといけないのは、この"家"じゃなくて、あなたの"これから"でしょう?」


「っ、僕の、これから……?」

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