第39話ぬりかべの餞別②

「……そろそろ、終いだ」


 そう告げて雅弥が腰を上げたのは、私と郭くんの器が空になり、冷めたダージリンの最後のひとくちを飲み干した時だった。


「あいつらは、耳が早い。あまりのんびりしていると、向こうからきてしまう」


「あいつらって?」


「隠世の警備隊だ」


「っ!」


 聞き覚えのある単語に、頬が強張る。

 これから郭くんは、自身の罪を背負って、ひとりで向かわなければならない。

 いつまで、どんな罰を受けなければならないのか。結局、私は何ひとつ聞けていない。


(気になる、けど……。今くらい、その話は忘れていたいだろうし……)


 ためらいに歯噛みする私の緊張を察したのか、


「……そんな顔、しないで」


 郭くんは困ったように小さく笑んで、


「ちょっと、怖いけど。僕にはたくさんの"これから"があるから、大丈夫」


「郭くん……」


 見ればいつの間にか、上り口にカグラちゃんの姿が。

 カグラちゃんは私と目が合うと、なだめるような笑みを浮かべた。


「祠まで、ボクが案内するよ。彩愛ちゃんも一緒においで」


 カグラちゃんに誘われるまま、私も郭くんと共に立ち上がり、靴をはく。

 先を歩く郭くんの迷いのない背に、私もしっかり送り出してあげなきゃと鼓舞していたその時、


「……あれ?」


 背にあった雅弥の気配に、違和感。

 振り返ると、雅弥はカグラちゃんの進む厨房横の通路ではなく、右方に伸びる厨房の出入口へと繋がる廊下へ行き先を変えている。


「雅弥はいかないの?」


 私の問いに、雅弥が歩を止め肩越しに振り返る。


「……必要なモノがある。先に行っていろ」


「あ、うん……」


 頷いて、急いでカグラちゃんと郭くんの背を追う。

 普段立ち入ることのない、暖簾に遮られた通路の奥。その果てにあったのは、勝手口に似た簡素な扉だった。

 上部のスモークガラスには白いレースのカーテンがかかっていて、外の明かりを柔らかく受け止めている。


「ここから外に出れるんだよ」


 カグラちゃんが銀色のドアノブを掴んで、回し開けた。

 その庭はけして広いとはいえないけど、私の住むマンションの一室よりは、面積がある。


 ブロック塀に沿うように背の低い木々が並んでいて、その中央に、左右に屋根が広がった朱塗りの小さな祠があった。

 土台となっている石も、祠の木肌も、その身に受けた年月に褪せている。

 祠へと歩を進めたカグラちゃんは、くるりと回って、


「これがボクの"本来"のお家で、隠世との境界。彩愛ちゃんは見るの、初めてだよね?」


 どう? と尋ねられ、私は再び祠に視線を移す。

 自然に囲まれた、と言えば聞こえがいいけど、ひっそりと佇む姿は、まるでひとりぼっちのよう。

 とはいえ祠自体も古びているだけで苔や汚れはないから、手入れされているのは一目瞭然なのだけど。


 "住む"には手がかかりそうで、自分の"家"にするのは、ちょっと御免こうむりたい。

 カグラちゃんが一緒だと言うのなら、少し考えちゃうかもしれないけど。


(というか――)


 先ほどから胸を打つ高鳴りに、すうと息を吸い込む。

 正直、"家"としてどうかってことより、別の"事実"が私の胸を躍らせる。

 だって私がいま目にしているのは、神様の家で、隠世との境界なのだから。


「……正直言うと、すっごくドキドキしている。なんか、神聖なモノを前にしているっていうか、この世の神秘に触れているっていうか……」


 私は思わず参拝するようにして両手を合わせ、


「これからこういう祠を見かけたら、ちゃんと手を合わせるわね……!」


「あっはは! さっすが彩愛ちゃん。怖がる……はないにしても、同情のひとつはあるかなーって思ってたんだけど、全然だったね!」


 あ、しまった。私は慌てて、


「ご、ごめんねカグラちゃん! 私ったらつい……!」


「ううん。むしろ、良かったよ。こーんなボロでも、ボクにとったら大事な"居場所"だから」


 カグラちゃんは「ああでも」と指先で目尻の涙をぬぐって、


「道端で見つけても、むやみやたらに祈らないほうがいいよ。場所によっては本来居た"神"じゃなくて、良くないモノが憑いちゃってる場合もあるし。仮にちゃーんと"神"だったとしても、変に気に入られちゃうと厄介だしね」


「あ、それってもしかして、連れ去れちゃったり?」


「そうそう。昔から"神隠し"って言葉があるくらいだからねえ。彩愛ちゃんも気を付けないと!」


(……雅弥と郭くんといい、私ってそんなに危なかっしいのかな)


 まあでも確かに、私はこんなに綺麗だし。

 あやかしや神様がどんな基準で選んでるのかはわからないけど、顔基準なら「一目惚れです!」なんて言われてもおかしくはないかな。


「わかった、気をつける!」


 元気よく頷いた私に、「うんうん、ボクも気をつけるね」とカグラちゃん。


(鈴の件といい、私の身の安全まで気にしてれるなんて優しいなあ……)


 ほっこりしていると、隣の郭くんが私の袖をくんと引いた。


「……本当に、気を付けてね」


「郭くんまで……気にかけてくれて、ありがとうね」


「……ううん」


 なんだか微妙な顔をした郭くんは、カグラちゃんへと視線を向けて、


「……本当に、気を付けて」


「そうだね。ボクも頑張るよ」


 交わされる二人の視線に、謎の結託感。

 カグラちゃんは「さてと」と祠を見遣って、


「ここから隠世に渡るといいよ。ボクの祠だからね。安全はもちろん保障つき」


 パチリと飛ばされたウインクに、郭くんが「……ありがとう」と頭を下げる。

 灰色の、淡く輝く瞳が私を見上げた。


「……すごく、楽しかった。こんなに温かい気持ちで、帰れるとは、思わなかった」


 呟くように告げた郭くんは、手にしていたハンカチを大切そうに抱きしめる。


「……ハンカチ、絶対に返しにくるから、待っていて」


「うん。ずっと待ってるから、必ずよ」


「……約束」


 それはさながら、ゆびきりめいた。

 小指だけが上がる左手を掲げた郭くんに、私も小指を立てて「約束、ね」と応じる。刹那。


「"約束"をより強くするな」


「わ、雅弥! びっくりした……」


 飛び上がるようにして振り返ると、剣呑に双眸を細めた雅弥の姿。


「それは俺の台詞だ。ったく、ほんの少し目を離しただけでアンタは……カグラ」


 鋭い眼光もなんのその。

 カグラちゃんはころころと笑って、


「これくらい、彩愛ちゃんなら平気だよお。ね、彩愛ちゃん?」


「私? もちろん、約束を破るつもりもないし、言葉に嘘もないし。針千本のめるのかって心配なら無用だけど」


「そうでは……いや、もういい」


 雅弥は脱力したように息をついてから、頬を引き締めて郭くんへと視線を流す。

 と、おもむろに右腕をつい、と伸ばし、


「……コイツがお前の供をする」


 雅弥の袖口から真っ白な子狐が姿を現し、手の甲をててっと駆けると郭くんの肩に降り立った。

 くるりと首後ろを回り、反対の肩で腰を落ち着けたその口元には、ストローの吸い口だけを切り取ったような巻物を咥えている。

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