第四話

「なっ……いったい何の用かしら?」


 呆気にとられつつも平静を装ったリリアだったが、一方のシリルは血相を変えた。


「その顔……どうしたんだ! 隊服もところどころ汚れているし、部屋も焦げ臭いぞ!」


 言われてぎくりとした。

 そういえばリリアは、とても彼に見せられないような姿をしていたのだ。


「な、なんでもないわ。料理をしていたのだけれど、ちょっとかまどの調子が悪くて、こうなってしまって」


 慌てて自身の頬や額を隊服の袖で拭う。


「この匂い……尋常じゃないな。今すぐ俺が点検しよう」

「えっ!?」

「もしや火事にでもなったらあなたの身に危険が及ぶ」

「だ、だめよ! やめてちょうだい!」


 リリアは両手を大きく広げて、シリルの行く手をはばんだ。

 しかし彼は、強引に部屋の中へと入ってくる。


「失礼するぞ」

「あっ……シリル様……!」

「これは……!」


 一直線に厨房へと向かった彼は、蒼玉の瞳を驚きに見開いた。


 厨房の中は、真っ黒なすすだらけ。かまどの周囲には、焦げた鍋や食材が転がっていた。 

 さらに竈の横のテーブルには、割れた食器類が散乱。

 それは料理を始める際に、リリアがうっかり落として割ってしまった皿やコップのたぐいだった。


「ちょっと待ってくれ……いったい何をどうしたらこうなるんだ? これは竈の調子が悪いわけじゃなく、単純に火力の調整ミスだろうが」

「うっ……わかっているわ、そのくらい」

「それにこの食器類はどうした? どれもこれも割れてしまっていて……ああ、これなんてシミゴ製のグラスじゃないか。なんてもったいないことを」

「それは……ちょっと手を滑らせて、落としてしまって」


 リリアはもごもごと口ごもる。


「これらはすべてあなたがやったのか?」


 ばつの悪さを感じながら、無言でうなずいた。


「なぜ? 料理など侍女に任せたらいいだろうに」

「侍女は、連れてきていないもの」


 するとシリルは、「嘘だろう?」と言わんばかりに目を瞬いた。


「正気か? どうしてそんなことを……あなたのような身分の者が侍女も付けずに生活するなんて、はっきり言って無謀だろう」

「それでも、誰もそのようなことをしていないから……」


 そう。王立騎士団には三つの隊が存在するが、ほかの二つの隊の隊長、副隊長ともに、侍女や侍従を帯同せず、身の回りのことをすべて自分で行っている。


「あなただってそうでしょう? シリル・クラウ副隊長。名門の嫡子ちゃくしでありながら、この宿舎に入ってからずっと、ひとりで生活しているのでしょう?」


 なのにリリアだけ優雅に侍女を付けての生活など、できやしない。

 それこそお飾りの騎士団長だと自ら認めるようなものだ。


「だったらせめて食堂を利用したらどうだ。あそこでは三食、それなりのものが提供されている。一般隊員たちも皆、そこで食事を済ませているぞ」

「食事の時にまでわたくしの――上官の顔は見たくないでしょうね」


 自嘲気味に言えば、シリルは「なるほど」と首を縦に振った。


「同感だな。それを理由に俺も自室で自炊している」


 シリルは割れた食器を拾い始める。


「あっ、やめて。それはわたくしがやるわ。それより、何か急ぎの用があったのではないの?」


 これ以上、彼と顔を合わせていたくなくて、先を促した。

 彼は、手を止めて立ち上がる。


「今日の任務終了後に隊長室を訪ねる予定でいたんだが、守備隊の隊長につかまってしまってな。ようやく自由になった頃には、あなたはもう私室に帰ったあとだったんだ。なのでこちらを訪ねたまでだ」

「まさか、ここで話をする気?」

「あなたが許してくれるなら」

「はっきり言って迷惑だわ。わたくしは私室に仕事を持ち込む気はないの。……たしか、竜騎士隊の今後についてだったわね? 明日、もう一度隊長室を訪ねてくれるかしら」

「なるほど、了解した。――が、このまま帰ることはできかねるな」


 え? と、リリアは小首をかしげた。


「まずは汚れた厨房の掃除。そのあとに、俺があなたの夕食を作ろう」

「なっ……ばかなことを言わないでちょうだい!」


 予想の斜め上を行く提案に、つい声が大きくなる。


「よけいなお世話はやめて。そのくらい、自分でできるわ」


 とは言ったが、黒こげになった食材たちの前では、説得力は皆無だろう。


「……殿下はたしか、料理が得意だったはずだと記憶しているが」


 言われてぎくりとした。

 そう。たしかにリリアは、婚約中、シリルの前であたかも料理が得意であるかのように振る舞っていたのだ。


「昔、仕事中の俺に、三度ほど美味しい食事を差し入れてくれたことがあっただろう」

「それは……あの頃は本当に料理を習っていて、あなたに嫁ぐのに、何もできないわたくしでは嫌われてしまうと思って……」

 炊事、洗濯、掃除と、ひととおりのことはできるようにと努力をしたのだ。

 そのどれもリリアには向いていなかったのか、まったく上達しなかったけれど。


「知らなかったな、まさかそんな理由で料理を習っていたなんて……」


 シリルの声に、戸惑いがにじむ。


「それから、殿下があんなにも武技に優れていることも、今日まで知らなかった」 

「だって……知ったら嫌だと思うでしょう?」


 なぜか後ろめたい心地になって、リリアは自分の足元に視線を落とす。


「武技が得意な妻なんて……きっと、お嫌でしょう?」 

「だから黙っていたのか?」


 こくりとうなずく。


「俺に嫌われたくない、その一心で?」


 もう一度、首を縦に振った。


「だってもし嫌われてしまって、あなたに嫁ぐことができなくなってしまったら……」

 それだけは絶対に避けたかったから。

 そう明かそうとしたリリアだが、そこではっとした。


 ――今さら何を言っているの、わたくしは。


 またしても昔のような感覚で、彼と会話をしてしまった。

 相手は一方的にリリアを振った男。しかも彼にはもう、新たな恋人がいるかもしれないのに。


「む、昔の話よ! 昔の話だわ!」


 慌てて誤魔化そうと、話を終わりにしようとしたが。

 

「――嫌いになるわけないだろうが」

「え……」


 急にのびて来た手に、腕をつかまれた。


「嫌いになんて、なるわけがない。あなたがどれだけ料理が苦手だろうが、どれだけ武技に優れていようが、この俺があなたを嫌いになるなんて、ありえないんだ」


 白い手袋をはめたままの大きな手が、いとも簡単にリリアの自由を奪う。

 布越しに感じる、彼の体温。

 気づけば吐息がふれるほどの距離に彼がいて、頭の中が真っ白になった。


 ――嫌いに、ならない……? わたくしのことを?


「ではなぜ……」


 そこまで言いかけて、リリアはまたしても正気に戻った。


 ではなぜ、二人の婚約を一方的に破棄してきたの?

 そう問いたくて、けれどそうすべきではないと判断し、口を閉じる。


「とにかく、ここは俺に任せてくれ。すぐに食事を持ってそっちの部屋に行く」

「だ、だからその必要はないと……!」

「だったらあなたが頷くまでこの部屋に居座るが、それでいいんだな?」


 シリルはにやりと笑った。


「さっさと食事を作らせてさっさとこの部屋から追い出すか、あるいは食事を作らせないがために明日の朝までここに居座られたのち二人仲良く竜騎士隊の隊舎へ出勤するか、さて、殿下はどちらを選ぶ?」

「どちらを、って……」


 その二択しかないのなら、前者のほうがマシに決まっている。


「ずるいわ。わたくしは必要ないと言っているのに!」

「では前者で決定だな」


 シリルは問答無用と言わんばかりのまぶしい笑みを浮かべた。

 抵抗むなしく、結局、リリアは厨房から閉め出されてしまったのだ。

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