第四話

 二年前のあの日。

 リリアの運命は、激しく、そして大きく転換した。


「申し訳ない、殿下……あなたの夫となることができなくなった」


 最愛の彼はリリアの前でひざまずくと、深々と頭を下げてきた。


「なぜ、ですか……? シリル様、なぜ突然このような……」


 放心状態のリリアがそう問うても、彼は決して理由を明かしてはくれなかった。

 ただ何度も「申し訳ない」と、頭を下げるばかりで。

 その肩がかすかに震えていたような気がしたけれど、今となってはどうでもよいことだろう。


「あなたを幸せにすると誓ったのに……そうできる自信があったのに! 結局、このざまだ。本当に申し訳ない……!」


 絞り出すように放たれた言葉。

 

 いやだ、と思った。

 別れたくなんてない。彼と一緒にいたい。どうしても彼の妻になりたい、と。

 けれどリリアには、どうすることもできなかった。 


「……わかりました」


 消え入りそうな声で、そう返事をすることが精一杯。

 そしてその場からすぐさま逃げ出したのだ。いまだ跪き、頭を下げる彼を残して。

 もう二度と、彼と相まみえることはないのだろうと、ぼんやり考えながら。


 だというのに。


 ――また出会ってしまうなんて……!


「王女殿下とこうして顔を合わせるのは二年ぶりになるか……久しぶりだな」


 彼はコート風の隊服の裾を揺らしながら、こちらに歩いてきた。

 より精悍になったその顔には、やや気まずそうな色が浮かべられている。


 ――気を遣われるなんてごめんだわ。


「ええ、ずいぶんお久しぶりね。わたくし、昨日付けで騎士団の団長かつ竜騎士隊の隊長に就任したの。たしか副官はあなただったわね?」


 淀みなく言えば、蒼い瞳が面食らったように見開かれた。

 驚いているようだが、それはリリアの騎士団長就任に対してではない。おそらくリリアがみせた態度に対してだ。


「ああ、たしかに報告は受けている。今朝まで国境沿いの街で任務にあたっていたため、就任式には参加できなかったが……」

「急に決まった式だもの、しかたがないわ」

「副官としては出席したかったところだが、残念だ」


 そこで彼は、こちらをのぞき込むように、やや首をかしげた。


「それより、殿下はこの二年でずいぶん変わられたようだ。以前よりだいぶ気丈になられた印象だが?」


 ほら、やはりそう。

 リリアの予想どおり、彼はそれに対して驚いている。


「そうかしら。とくに変わったつもりはないけれど」


 言いながら、すっかりおとなしくなったラヴェリタへと歩み寄った。


 ――嘘だわ。変わったつもりはない、なんて。


 実際は、余裕の態度を見せて、彼との別れなどたいしたことなかったと装いたいだけ。

 だから早く彼の前から立ち去らなければ、ぼろが出る。


「ではわたくしはもう行くわ。明日にでも、今後の方針に関して打ち合わせしましょう」


 しかし次の瞬間、後ろから左腕をつかまれた。


「なっ……何!?」


 いきなりふれられれば、途端に鼓動が暴れ出した。

 今、ふりむいたらまずい。

 大いに動揺しているのを、彼に知られてしまう。


「失礼な振る舞いはやめてちょうだい。今すぐこの手をどけてくれるかしら」

「なるほど……俺と過ごした頃の殿下ではもう、なくなってしまったというわけか」

「あなたと過ごしたことなんて、もう忘れたわ」

「本当に? 少しも覚えていないのか?」

「ええ、まったく」


 これも嘘。

 本当は、忘れたいのに忘れられなかった記憶が、頭の中のそこかしこに残っている。


「では俺と初めて会った日のことも? その時、殿下に贈った花の名も?」

「知らないわ」

「では初めて俺の馬に乗った日のことは?」

「もちろん忘れたわ」


 すると彼は、くすくすと笑声を漏らし始めた。


「俺はしっかり覚えているよ。あの日、あなたと遠乗りに出かけて、着いた先であなたが俺の馬の尾を引っ張ったものだから、馬が暴れて二人で崖から落ちそうになって、とんでもない思いを――」

「ちょっと待って!」


 思わずリリアは振り向いていた。


「あれは先にシリル様が崖から落ちそうになったから、どうにか助けなくてはと思って……! それでつかまる場所を探して、ついあなたの馬の尾に手をやってしまったんだわ」

「俺が崖から落ちそうになったのは、そもそもあなたが最初に落ちそうになったからだろうが」

「そ、それはもちろん覚えているし、助けていただいたことも感謝しています。ただ、わたくしが悪戯に尾を引っ張ったようなことをおっしゃるから――」


 そこまで言ってから、リリアははっとした。


 まずい。背後を振り返っただけでなく、つい昔のような態度で彼に接してしまった。

 しかも目の前にあるのは、彼の蒼玉の瞳。


 見つめ合っているのだ、彼と。

 そう認識すれば途端に頬に朱が昇り、居ても立ってもいられないような心地に陥った。


「……変わってない。やはりあなたは俺が知っている王女殿下だ」


 リリアの腕をつかんだままの彼の手に、力がこめられる。


「殿下、シリルだ。よく見ろ。あなたの婚約者であった男だ。俺の恋人であった日々を……あの頃の気持ちを覚えているだろう?」

「やめて……離してちょうだい」


 リリアは身じろぎした。


「忘れたなんて嘘だ。忘れたふりをしているだけだろう?」

「いいえ、本当に忘れたわ……!」

「嘘だな」


 気づけば腰に手をまわされ、ぐいと引き寄せられていた。

 頬に感じる、彼の吐息。

 その端正な顔立ちが驚くほど近くにあって、頭の中が真っ白になってしまう。


 ――やめて……お願いだから、もうかき回さないで!


「離して……!」


 叫ぶと同時に彼の胸を叩いて距離をとった。


「知らないわ……あなたのことなんて、もうすべて忘れたもの!」

 ひとつ、深呼吸。

「わたくしは……わたくしは、リリア・アンセルム・ヴィステスタ。王立騎士団の団長兼、竜騎士隊の隊長よ!」


 思い出せ、自分。彼にされた仕打ちを。その際に味わった惨めな思いを。


 ――そう。わたくしは騎士団長。彼はその副官。ただそれだけの関係なのだから。


 しかも彼にはもう、新たな恋人がいるとの噂もあるのだ。


「シリル・クラウ副隊長」


 ようやく落ち着きを取り戻したリリアは、白銀の聖竜を背に立った。


「今の行いは不問にするけれど、この先、無礼な振る舞いは許さないわ。二度はないことを覚えておいてちょうだい」


 返事をする暇など与えない。

 悪役よろしく彼をキッと睨み付け、さっさと踵を返す。


 しかしすぐさま、背後から声が追ってきた。


「ひと目でもいい、会いたくて、だがそれは叶わなくて……いっそあなたが誰かのものになってくれるならと、そうも思ったよ」


 え? とつい足を止めると、彼はひとりごとのように続けた。


「だというのに、あなたはまた俺の前に現れた。……これはおそらく運命なんだろうな」

「運命……?」

「ならばもう迷わない。殿下をあきらめる気はちりと消えた。だから覚悟しておいてくれ」


 では、とシリルは胸に手をあて、優雅にお辞儀をした。


 覚悟とは、いったい何に対してだろう?

 答えがわからぬまま、リリアは逃げるようにその場をあとにしたのだ。

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