第六話

 部屋に残されたリリアとシリルの間には、耳に痛いほどの静寂せいじゃくが漂っていた。


 どうしよう。彼に何と声をかければいい?

 わからなくて狼狽うろたえていると、やがてシリルが口を開く。


「――受けない、よな?」

「え……?」

「ロドルフ隊長からの求婚、まさか受けないよな?」

「……わからないわ」


 リリアは正直に応えた。

 するとシリルが、急にこちらを振り返る。


「なぜだ……! なぜ『受けない』と言ってくれない?」


 血相を変えた彼は、リリアの両肩をつかんできた。


「だって、本当にわからないから……」


 そう。ロドルフからたった今提案されたばかりの、突拍子もない話だ。

 ただただ混乱していて、受けるも受けないも、何も考えられていない。

 だから「わからない」と、率直な想いを口にしたのに。


「もしや、ロドルフ隊長のことが好きなのか……?」

「は……?」


 これまた突拍子もない問いに、リリアは盛大に首をひねった。


「だからあの場で断らなかったのか……!」

「ち、違うわ。おかしな推測はやめてちょうだい!」


 慌てて否定するが、おそらくシリルはまともに聞いていない。

 彼はなにやらぶつぶつとつぶやき始める。


「最悪だ、まさかこんなことになるとは……なぜロドルフ隊長は今になって……」

「ねえ、わたくしの話、聞いている?」

「こうなったらもう、隊長を頼るわけにはいかなくなったな。クラウ家の力をなんとしてでも使えるようにして、兄の行方を捜して……」

「お願いだからわたくしの話をきいてちょうだい。ロドルフのことは、それはもちろん好きだけれど、それは従兄弟としてというだけだわ。だってわたくしの好きな方は――」


 そこまで言って、リリアは慌てて口をつぐんだ。

 シリルに対する恋心を先ほど認識したばかりの自分だが、まさかそれを本人に明かすわけにはいかない。


「好きな方、だと……? まさか、あなたにはすでに恋人がいるんじゃ……」


 その部分はしっかりと聞いていたらしい。


「な、なんでもないわ。今の言葉は忘れてちょうだい」

「ちょっと待て、あなたが慕うやつとは、いったい誰なんだ」


 いつしか蒼玉色の瞳が間近にあった。

 シリルは祈るような眼差しを、ひたとリリアに向けてくる。


「さあ、早く。……その名を言ってくれ」


 彼の吐息が、そっと唇にふれる。つかまれた両肩がやけに熱くて、頬に朱が昇った。

 やがて彼の顔がわずかに傾けられれば、まるでそのまま口づけをされてしまうような錯覚を起こす。



「は、離して……!」


 リリアの思考は限界突破。

 シリルの胸を突き飛ばすようにして彼から離れた。


「言わないわ! だってあなたには関係のないことだもの……!」


 首を左右に振りながら、数歩、下がる。

 しかしシリルは、逃がさない、と言わんばかりに距離を詰めてきた。


「大いに関係あるだろうが。あなたに想い人がいるなんて、考えただけで頭がおかしくなりそうだ!」

「なぜ!」

 反射的に問えば。

「あなたのことが好きだからだろうが!」

 打ち返すように言われた。


「…………え?」


 リリアの頭の中に、膨大な量の疑問符が生まれた。

 今、彼はなんて言ったの?

 すぐには飲み込めなくて、ただ彼の迫力に圧倒されて、よろけるように数歩下がれば壁に背中がぶつかる。


「聞こえなかったか? 俺はあなたのことが好きだと言ったんだ」

「す、すき……? わたくしのことを?」

「ああ、そうだ。好きだ。とても。ものすごく。もうどうしようもないくらいに!」

「嘘……!」


 とっさに出たのは、その言葉。


「嘘よ。騙されないわ。だってあなたはわたくしとの婚約を破棄したもの!」

「それでも……! あなたのことが好きなんだからしかたないだろうが!」

「やめて!」


 リリアは叫んだ。


「お願いだからやめて! もうこれ以上、おかしなことを言わないで……!」


 彼のことを忘れられない自分。やはり好きなのだ、と認識してしまった自分。

 けれど彼に好きだと言われても、手放しで喜べるわけがない。

 混乱して、心が押し潰されるように苦しくなるだけだ。


 それなのに。


「嫌だ」

 シリルはさらにリリアとの距離を詰めてきた。


「こうなったらやけくそだ。ようやく言えたんだ。長いことずっとあなたのことを想ってきて、今、ようやく……!」

「長いこと、って……」


 ――いったい、どういうことなの?


 もう何が何だかわからない。

 ではあの婚約破棄はなんだったのか? わけがわからなくて、「やめて」と、リリアは首を左右に降り続けた。


「殿下、あなたのことが好きだ。二年前のあの日に別れたあなたのことも、もちろん再会してからのあなたのことも」

「な、なぜ急にそのような……!」

「あなたには、やはり俺の妻になってほしい。あなたをロドルフ隊長になんて渡したくはないんだ!」


 再びシリルに両肩をつかまれる。

 逃げたい。けれど叶わない。

 眼前にはシリル。背後には壁。リリアはもう泣きたくなった。


「あなたを混乱させる結果になって、申し訳ないと思っている。だがもう、あなたをあきらめることなどできやしない。……いや、最初から到底無理な話だったんだ」


 シリルの長い指が、リリアの頬にふれた。

 それは撫でるように肌の上を這って、やがてリリアの唇にたどり着いた。


「再会した日に俺が言ったことを覚えているか?」


 なに? と、リリアは視線で問うた。


「――再会は運命だ。ならば俺はもう迷わない、と」


 言われてすぐさま思い出した。

 その意味は、よくわからないままだけれど。


「もう一度言おう。――このシリル、あなたをあきらめる気はちりと消えた。だからどうか覚悟しておいてくれ」


 言い終わるなり、彼の顔が傾く。


 ――ああ、なんて長いまつげ……。なんて整った顔立ちをしているの。


 ぼんやりと考えている間に、リリアの唇にそっとふれる熱があった。

 口づけをされたのだ、彼に。

 そう気づいたのは、彼の唇が離れていったあとだった。


「なぜ、今……」


 どうして今、キスをするの?

 五年もの婚約期間のうちに、一度だってそれをしてくれなかった彼なのに。


「ひどい方……!」


 気づけばぽろりと涙がこぼれていた。

 しかしシリルは、それでもリリアを自由にしてくれようとはしなかった。


「あなたの言うとおり、確かに俺はひどい男だ。……泣いているあなたにさえ、あおられる。このままあなたを抱き潰して、俺だけのものにしてしまいたいとすら思う」


 申し訳ない。

 シリルは何度も謝罪の言葉を呟いた。


「けれど、離してやることはもう、できないんだ」


 そして彼のほうこそ泣き出してしまいそうな顔で、またしてもリリアにキスをしてきたのだ。

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