第三話

 その後、リリアたちはサワバの街に常駐する警備隊と合流した。

 協議の結果、捕らえた犯人たちは警備隊の詰め所で応急処置を受けさせることとなり、警備隊の一時預かり扱いとなった。


 しかしリリアたちは、せめてリーダーらしき男だけでも共に連れ帰り、早々に調査を開始したかった。

 そのため警備隊の詰め所に一泊し、リーダーらしき男の治療が終了するのを待つこととなったのだ。


「殿下、少し話がしたいんだが、いいか?」


 シリルに声をかけられたのは、その夜、警備隊の竜舎りゅうしゃで、ラヴェリタの世話をしている時だった。


「な、何かしら」

 緊張するあまりに、声がつい裏返ってしまう。

 シリルが背にするのは、演習場の入り口に設置された灯り。

 それが逆光となり、彼の表情を見て取ることはできなかった。


「あなたに聞いて欲しいことがあるんだ。……俺が、あなたとの婚約を破棄した件について」


 びくり。

 思わぬ言葉に、全身が震えた。

 生温かな春の夜風が、リリアの亜麻色の髪を舞上げる。

 ラヴェリタは眠ったふりをし始めたのか、敷き詰めたわらの上に座り、目を閉じた。


「俺があなたとの婚約を一方的に破棄した理由は、昼間明らかにしたとおり。あなたとの婚約を取りやめなければ、兄を殺すと脅されたからだ」


 親から勘当され、行方知れずとなっていた兄。

 けれどシリルにとっては唯一の兄弟で、大切な存在だった。

 だから彼を守りたい一心で、正体の知れぬ相手からの要求をとにかく飲んでしまったのだと、もう一度丁寧に説明をしてくれる。


「勘違いしてほしくないのは、決してあなたの存在を軽んじていたわけではない、ということだ」


 シリルはリリアの眼前まで歩いてきた。

 背の高い彼と向かい合えば、自然と見上げるような格好になる。


「脅され、兄を助けるためあなたに別れを告げたが、それは簡単ではなかった。悩んで、葛藤して、苦しんだ末のことだ。……俺はどうしても、あなたに俺の妻になってほしかったんだ」

「わたくしに……?」


 まさか、そのように思ってくれていたなんて。

 あの頃の自分が報われたような気がして、リリアは胸が熱くなる。


「あなたは、俺があなたのことをどう思っていたか、わかっていないだろう?」

 いいえ、とリリアは口を開いた。

「あなたが、わたくしを大切にする、とおっしゃってくれたことは覚えているわ」

 初めて顔を合わせた日、アイリスの花言葉になぞらえて。


 けれどシリルは、「違う」と首を横に振った。

「それは決意のようなもので、俺の想いとは別のものだ」

「想い……?」


 ではどう思ってくれていたのだろう?

 知りたくて、けれど聞くのがこわいような気もした。


「あの頃……兄に替わって急にクラウ家の跡継ぎとなった頃、少々嫌気が差していたんだ。兄の代役として跡を取るのはかまわないが、結婚相手までも勝手に決められてしまうのか、と」


 リリアとシリルの婚姻話は、完全なる政略的それ。

 しかもリリアの父であるヴィステスタ王が、望んで婚約を成立させたものだ。


「面白くなくて、むしゃくしゃしていて……そんな時にあなたに会って、こんな子供が俺の相手かとばからしくなって……けれどすぐに救われたよ。あなたのひたむきさにふれて」

「……? よくわからないわ」

「あの時、あなたは言った。すぐに成長するから、あなたにふさわしいと言われる女性になるから、どうか待っていてくれ、と、俺にすがりつくような勢いで」

「それは……だって、あなたに嫌だと思われたくなかったから」

 とにかく必死だったのだ。


「それを聞いた時、悪くない、と思った。俺にしてみればあなたは子供で、でもまぶしいほどに純粋で、まっすぐで、何色にも染まっていなくて……そんなあなたとこの先ずっと一緒にいるのかと考えたら、クラウ家の跡を取ることも、政略的婚姻も、案外悪くないと、なぜか思えたんだ」

 過去を懐かしむように、シリルは目を細める。


「……実際、一緒にいるようになれば、あなたはやはりまっすぐで、こんな俺に好かれようと必死で、かわいらしくて……。家の事情だなんだでふてくされていた俺にしてみれば、あなたの清らかさがたまらなかった」

 彼の大きな手が、リリアの側頭部に添えられる。

 そのまま親指で頬を撫でるようにされれば、身じろぎせずにはいられなかった。


「あなたが成長するのが楽しみで、めとれる時をあと何年かと指折り数えて待っていたよ」


 どうしてだろう。ふれられた箇所から、彼の気持ちが伝わってくるように感じられる。

 彼が、その言葉以上にリリアのことをいつくしんでくれているように思えて、なぜだか泣きたくなった。


「いつしか俺は、本気であなたのことを大切に思っていた。……そうだな、恋、していたんだろうな。あなたに」

 シリルは噛みしめるように言う。

「そしてその気持ちは、今も変わらない。長らく兄を見つけることができなくて、もういいかげんあなたをあきらめなければいけないと自分に言い聞かせ続けてきたが……再会してしまえばもう我慢することなどできなかった」


 だから毎夜、リリアのことを訪ねてきたのだという。

 夕食の面倒をみるという口実を作ってまでも、一緒にいたくて。


「殿下、俺はあなたが好きだ」


 あまりに率直すぎる言葉に、心臓を射貫かれたかと思った。


「もうあなたをあきらめることなどできやしない。ましてや他の男になんて……ロドルフ隊長にだって、あなたを渡したくないんだ」


 直後、かき抱くように引き寄せられる。

 窮屈なくらいに身体が密着し、たちまち息ができなくなる。

 逃げるように顔を横向け、彼の胸に頬を寄せれば、のぼせたように頬が上気した。


「陛下のことは俺がどうにか説得する。もう一度、あなたの相手として認めてもらう。世間の噂からも、必ずあなたを守ってみせると誓う。――だから殿下、お願いだ。俺と結婚してほしい」

 にわかに信がたい言葉が、耳元で囁かれる。

「あなたにもう一度、俺の婚約者になってもらいたいんだ」


 ――まさか、こんなことが起こるなんて……。


 リリアは唖然とした。

 あまりに衝撃的すぎて、心が打ち震えていた。


 ここに至るまでのたくさんの想いが、胸の中いっぱいに広がっていく。

 彼と出会った日のこと。一度、別れた日のこと。そして彼と再会してから今日までの毎日。

 それらがあっという間にリリアの感情を支配して、目頭が痛いほどに熱くなった。


「シリル様、わたくしは、あなたのことが……」


 好きなのです、と言いたかった。

 一方的に婚約破棄をされても、どうしても忘れられなかった彼。

 もう二度と彼と一緒にいることはできないのだと、絶望のままに今日まで生きてきた。

 それでも再会してしまえば、やはり彼に対する恋心を認識してしまって。

 だから今、溢れそうなこの想いを、伝えたかった。


 けれど。


 ――「はい」と、返事をするわけにはいかないわ。それより先に、わたくしにはやるべきことがあるもの。


 脳裏に浮かんだのは、ロドルフのやさしげな微笑。

 先に求婚をしてくれている彼に返事をしてからでないと、シリルと想いを重ねることはできなかった。


「……待っていて、ください」


 ぽつりと言えば、シリルは「何を?」と言わんばかりに眉をひそめた。


「ロドルフに、先日の求婚の返事を……はっきり断ってくるわ。だからそれが済むまで、シリル様への返事は待っていてほしいの」

「断る……ということは……」


 ふいにシリルが身体を離した。

 こちらの表情をたしかめたかったのだろう。彼はリリアの両肩に手を置き、のぞき込むようにしてくる。


「ええと、つまり……」

 リリアはこくりとうなずいた。

 無言のままだったが、それが何を指しているのか、シリルにも伝わったようだ。

 彼ははっと息を飲んだかと思うと、弾かれたようにもう一度、リリアを抱きしめてきた。


「もちろん待つさ……! あんたの婚約者に、もう一度戻れる日が来ることを」


 リリアは再度、無言のままうなずいた。

 きつく抱きしめられれば、もはや思考が覚束なくて、まるで夢の中にいるような心地に陥る。


「……が、あまりに遅いのは無理だ。俺もあなたもあの頃とは違う。俺は一刻も早くあなたを手に入れたくて、しかたがないからな」


 それがどういう意味なのかわからなくて、胸に抱かれたまま首をかしげた。


「わからないか? あなたのことを早く抱きたい、ということだ」

「だ……」


 抱きたい?

 びっくりしてつい顔を上向ければ、彼がくすりと不適な笑みを広げる。


「罠にかかったな」


 待っていたとばかりに、彼の指がリリアのあごを捕らえた。

 やがて蒼玉の瞳が瞼で覆い隠されたと同時、リリアは唇にやわらかな熱を覚えた。

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