チョコレートの香りがする机

 浅川結有は、南雲の事を知りたかったが、自ら距離を取っている事もあり、クラスメイトに訊くのは諦めた。


 勿論だが、受け取ったお弁当は残さず美味しく頂いた。全てのおかずに工夫が凝らされていて、彼は母親に愛されているのだと思うと、それだけで嬉しい気分になった。


 ……まあ、作ったのは加賀谷だが、彼女はその事を知る由もない。


 ◇


 その翌日の休校日。


 浅川結有はアルバイト先の引越センターに行った。

 ここは日払いで、高校一年の彼女にとっては日当も良かった。


 タンスや本棚などの大きな荷物は男性が運ぶ。ここでの彼女の役割は小物などの梱包だ。

 茶碗やお皿などの割れ物を緩衝材で挟んだり包んだりして、段ボール箱に詰めこむ作業だ。


 以前の高校に通っていた時も、同じようなバイトをしていた彼女は非常に手際が良く、この区域を担当する営業所の所長に「次の休日も是非バイトに来て欲しい」と言われた。


 受け取った日当には、技術手当てとして千円プラスされていた。


 アルバイトの多いこういった業種では、丁寧かつ迅速に動く彼女のような人材は貴重だ。

 段ボール箱の梱包一つにしても、割れ物同士の遊びが多ければ、運搬中に割れてしまう事も多々有る。

 だからといって緩衝材を多く使えば、緩衝材の使用量どころか、段ボール箱の数も増えてしまう。

 梱包が下手だとそれだけで、時間も含めた余計なコストが掛かってしまうという事なのだ。


 ◇


 帰り道にあるスーパーマーケットで食材を買った浅川結有。

 都営アパートへ帰宅しようと歩き始めた所で、二人組の男の一人に声を掛けられた。


「やあ浅川さん、お久しぶりですね」


 その二人を見た浅川結有は震え始める。とうとうやって来たのだと。


「今、いくら返せます?」


 彼らは違法な債権回収業者だ。だが、彼女が例え少額でも支払っていれば、かなりの確率で違法行為では無くなる。


 法律的な話になると難しいので簡単に説明する。

 例え本人が借りていなくとも、少しでも支払ってしまった場合、返済する事を認めたとみなされるのだ。

 この事実は、仮に浅川結有が裁判を起こしたとしても、彼らにとっては有利に働く。



「おっと、人目に付いちゃあ浅川さんも困るでしょう。ここではあれなので、アパートでゆっくりと話し合いましょうや」


 ――彼らをアパートに案内してしまうと、確実に祖父母に飛び火する。


 浅川結有は下げていたトートバッグから財布を取り出した。


「いやいや、こんな人目の多い所では受け取れませんよ。カツアゲだと思われちゃいますし、領収書だって書かなきゃなんねえでしょ?」


 格上だと思われる男はそう言うと、下っ端だと思われる男に声を掛ける。


「おい、ちょっと車回して来いや」


「へい兄貴、分かりやした」


 下っ端は急ぎ駆けていったが、すぐに大慌てで戻ってきた。


「あ、兄貴……く、車が……ぜぇっ、ぜぇっ、駐禁でレッカー移動されちゃってんすけど!」

「な、なにい⁉」


「ど、どうしやしょう?」


 血管を浮き上がらせた男が怒鳴る。


「引き取りに行ってこいやあっ!」

「兄貴……オイラ、免停中なんすけど」


「おい、俺が行くとゴールド免許に傷が付いちまうだろがっ!」

「いや、兄貴……オイラ免取り(免許取り消し)になんのだけは嫌っすよっ!」


「くっ……じゃあ田中を呼んでアイツに行かせろ」

「田中は二輪免許しか持ってないすけど?」


「くっ……じゃあ山本を……」

「アイツ、一昨日事故って逃亡中なんすけど?」


「……じゃあ佐藤を……」

「佐藤は痔の手術で入院してんすけど?」


「……俺のゴールド免許詰んだぁぁぁ!」

「すいやせん兄貴ぃぃぃ!」


 当然だが、通行人は足を止めて、このコントのような状況を伺っている。

 目立ちたくない浅川結有としは、この場から一刻も早く立ち去りたかった。


「まあいい……後で誰か金貸してる奴に行かせろ。今は浅川が先だ」

「……へい」


 男は浅川結有をギロリと睨むと顎で促した。先に行けと言っているのだ。

 逃げる術は無いのだと覚悟を決めた浅川結有は、都営アパートへ向かって歩き始める。


 彼女は歩きながら、この先高校に通うのを諦めた。祖父母に迷惑を掛けない為にも、高校を辞めて働くしか無いと考えたのだ。

 彼らにどんな仕事を斡旋されても従う覚悟も出来た。


 そんな彼女から、少しだけ距離を取って付いてくるガラの悪そうな二人の男。


 間もなくアパートに到着した彼女は立ち止まると空を見上げる。ぼんやりとしたその表情には、白い息が纏っていた。


 ――その時、一人の男がアパートの階段を降りてきた。


 その男は「こんばんは」と、浅川結有に声を掛けると通り過ぎた。


 ――⁉

 浅川結有はその声に聞き覚えが有った。

 ……そう、ロッカーの前で頭を下げていた先輩の声だ。彼女にとっては間違いようのない、独特で優しいハスキーボイスだ。


 こんな状況にも関わらず、浅川結有は思わず振り返ると口を開いた。


「南雲先輩?」


 階段を降りてきたのは、この都営アパートが実家である南雲だったのだ。


 だが、南雲は彼女が誰なのか解らない。ただ、同じ都営アパートの人だと思って挨拶をしただけだ。


 滅多な用事以外では、女子に声を掛けらた事の無い南雲は焦った。先輩などと呼ばれた事さえ無かったからだ。


「……えっと……」


「お、お弁当有り難うございました」


「……あ」


 南雲は咄嗟に彼女から顔を逸らした。そう、怖がらせてしまうと思ったからだ。


 ところが、顔を逸らした先には浅川結有に付いてきていた彼らが居た。


 彼らにとって、いきなりガバッと睨み付けてくる、もの凄い三白眼は脅威だった。


「「――ひゃぁっ!」」


 兄貴と呼ばれていた男は思った。

 これヤバいやつじゃねえか……いやいやこの顔は絶対ヤベえ。

 俺はこの辺の組織とは繋がりが無い。下手をすれば簀巻きにされて、多摩川にでも投棄されかねねえ。


 平和を愛するアパート住民でもある南雲は、当然だが彼らにも挨拶をする。


「あ、どうもこんばんは。驚かせてしまってすみません」


「「いえいえいえいえいえ! ここここちらこそすみませんでしたぁぁ!」」


 地元の組織にコネを取らなければならないと考えた彼らは、慌てるように逃げていった。


 ◇


 それが一時的だとしても、浅川結有にとって南雲は憧れの存在となった。


 いつも南雲の姿を追いかけた。いつも南雲を見守っていた。


 ――そしてバレンタインデーがやってくる。


 想いを込めて作った小さなチョコレート。

『南雲さんへ』と、書いた二つ折りのカードを添えた。


「先輩の事が大好きです。私とお付き合いして欲しいです。今日の放課後、駅の南口で返事を待ってます。

一年A組 浅川結有」


 ◇


 ――そう……南雲は来なかった。


 代わりにではないが、やって来たのは例の二人組だった。


「探す手間が省けた」


 彼女は逃げた。改札をくぐり、登りホームへと駆け込んで、ドアが閉まりかけていた電車に飛び乗った。


 ◇


 ――やがて……彼女は何処かの駅のホームに降り立った。

 ……喪失感に包まれた彼女は歌を口ずさむ。


「キーラーキーラーひーかーるー……おーそーらーのーほーしーよー……」


 白い吐息と共に、その歌声は流れていった……


 ――そして月島が彼女に声を掛ける。



 ◇ ◇ ◇




 名刺を見せ、浅川結有の肩にコートを掛けた月島。


「ああ、そうだ。君はお腹は空いていないか? 良ければ何か食べながら話そう」


 何かに縋り付きたかった浅川結有は、月島と一緒に駅前のファミリーレストランに入った。


 悪い人では無いと感じた浅川結有は、勧められるままハンバーグを食べながら、月島に今までの出来事を打ち明けた。


 月島はパスタを口に運びながら、どんどん喋ってくる彼女の話を聞いた。


 パスタを食べ終わった月島が、コーヒーのおかわりを注文した。

 話が一段落ついた様子の浅川結有が、ショートケーキを食べ始める。


「ああ……債権回収業者の件だが、私の知り合いに弁護士がいるからすぐに対処しておくよ。君が借金を支払う事は無いし、もう何も心配する事は無いから」


 その言葉を聞いた浅川結有は、吃驚したようにフォークを置いた。


「い、いえ……そんな事まで月島さんに……」


 その言葉を遮る月島。


「ああ、君の祖父母には女性スタッフから連絡を入れておくよ。今日はそのスタッフの部屋に泊まるといい」


「――あ、有り難うございます」


「ああ……お礼はいいよ。照れるから」


 月島はそう言ってコーヒーを一口すすったあと、再び浅川結有に顔を向けた。


「君の芸名だが……阿佐ヶ谷ゆうみというのはどうだろうか?」


「返事もしていないのに、芸名だなんて……」


「自分を変えるのに、早いも遅いもないから」


「……月島さん。返事は待って頂いてもいいですか?」


「ああ、急がなくても、じっくり考えてからでいいよ」


「あの、それと……実は私、四週先までの休日バイトの予約をしているのですが、キャンセルだけはしたくないんです」


「ああ、君は責任感が強いんだね。バイトを優先してくれて構わないよ」


 ◇


 ――これもまた運命だろうか。


 彼女の最後のバイトは、南雲が両親と暮らしている都営アパートから出て、大学に近い場所に部屋を借り、一人暮らしを始める為の引っ越しだった。


『引っ越し全てお任せパック』


 南雲本人は、菅原と加賀谷と共に、大学合格記念として軽井沢にある菅原家の別荘に行っていたのだ。


 南雲の両親とも仕事が忙しく、引っ越しに立ち会っていたのは南雲の祖母『祐子』だった。


「何だか孫の部屋って、甘い香りがするけれど……」


 机は置いていくそうなので、中身だけ運ぶようにと、営業所からの指示があったので、南雲の学習机の中身を、段ボール箱に詰めていた浅川結有はハッとする。


 祐子の言うとおり、引き出しを開けると、甘い香りが漂ってくるのだ。


 だが、浅川結有は黙々と梱包作業を行った。


 そこで、開かない引き出しが有ると気付く。


「あの……この引き出しは鍵が掛かっているのですが……」


「あら、何かしら……あの子が何か隠してるのかしら……いいわ、開けてみちゃえ」


 祐子はそう言って、アップに束ねている自分の髪をとめていたヘアピンの一本を取ると、それを鍵穴に差し込んだ。


「こういう引き出しの鍵って、こうやれば簡単に開くのよ」


 ――カチャ。


 入っていたのは浅川結有には見覚えの有る小さな箱だった。そのリボンは彼女が結んだ物だ。


 そして二つ折りのカードも入っていた。

 封をしたシールはそのままで、カードを開いた痕跡が見当たらない。


 ああ――彼は中身を読んでいなかったんだ。


 彼女にとってそれは――

 ――希望の光だ。



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