卒業式で貴方を好きになるなんて
――午後一時半。
本日のバンドメンバーの内訳は、リードギター、サイドギター、ベース、ドラム、キーボード(ピアノ)、それにコンガとフルートを加えた七人。
ボーカルの高井戸美由紀を入れれば、八人構成の豪華なバンドである。
ギターを二人にしている理由は、メイン・メロディ(主旋律)を強調させて、歌唱力に問題の有る高井戸美由紀をサポートする為だ。
南雲が作った曲を楽器で再現するには、この構成じゃなければ無理だと言い切る中野佳音の意見を取り入れた形だ。
某有名音楽学校を首席で卒業している中野佳音の実力は、高井戸美由紀のマネージャーであり、今回のMV制作の責任者でもある豊洲は充分に理解している。
昨日の今日でプロのパーカッショニストとフルート奏者を手配した豊洲も、相当に人脈が有ると言えよう。
だが、それにもまして高井戸美由紀が所属する、㈱ダズリング企画が、今回のMV制作に、相当力を注いでいる事も伺えた。
「では、楽譜を配ります」
中野佳音が楽譜を配り始めたが、豊洲は彼女の目元に、酷い隈が出来ている事に気付いた。
豊洲は、彼女にかなり無理をさせてしまったと感じた。
「取り敢えず、キーボード抜きでリハーサルを始めましょう」
中野佳音なら、リハーサル無しでも大丈夫だろう。
リハーサルの間だけでも彼女を休ませたいと思った豊洲の発言だった。
コントロール・ルームに居た南雲も、かなり疲れた様子の彼女を見て、豊洲さんも色々と気に掛けてるんだなと、心の中で彼の事を高く評価した。
二人は同じような事を考えた。各パート毎の楽譜を書くなんて、恐らく徹夜作業だったのだろう。
あんなに酷い隈が出来るなんて、相当大変だったに違いないと。
勿論だが音楽に関しては、南雲も豊洲も素人なのだ。
実際には、彼女が全部のパートを譜面に起こすのに要した時間は、二時間程度だった。
出来上がっている曲を譜面に起こすだけなら、絶対音感を持っている彼女にとっては、鍵盤を叩いて確認するまでも無い簡単な作業だ。
彼女が酷く疲れているのは、昨夜は一睡も出来なかったからだ。
◇
……昨夜、植え込みに身を潜めながら、南雲と加賀谷、そこに加わった警官とのやり取りを見ていた中野佳音。
「ほら、ちゃんと帰ってきたじゃないか」という警官に、眼鏡を外した加賀谷が食ってかかる様子も見ていた。
事情を説明しながら加賀谷をなだめている南雲を見て、加賀谷が羨ましいとさえ思った。
暫くして加賀谷は、脇に抱えていたハーフヘルメットを装着し、乗ってきたと思われる原付バイクで帰宅したようだが、加賀谷を見送った警官も、南雲に手を振ると、苦笑いを浮かべながら交番の中に戻って行った。
そして歩いてきた南雲は、マンション入り口の花壇に残されていたハンカチを見付ける。
南雲はハンカチを小さくたたむと、花壇にあった小石をその上に乗せ、小さく呟いた。
「待っていれば必ず会えるから、ここに居てね」
マンションの住人が落としたんだろうと思った南雲は、交番に届けるよりはこの方が良いと判断したのだ。
あたしに語りかけた訳じゃ無い。そう分かっていても帰れなくなった。
ハンカチでは無く、あたしが座っていたとしても、彼は言葉を掛けてくれただろうか。
南雲が居なくなっても、いつまでもそんな事を考えながら、植え込みの中に座り込んでいた。
喉の渇きに加え、容赦なく攻撃してくる蚊とも戦っているうちに……やがて夜が明けた。
ストレッチをしようと、交番から出て来た仮眠開けの警官に「そこで何やってるんですか?」と、声を掛けられるまで彼女はそこに居た。
黒織柄のパンツスーツで植え込みの中に居ても、明るくなれば誰かが居るのは分かる。
「け、決して怪しい者では無いです」
充分に怪しいので、そのまま交番に連れて行かれた。
取り敢えず名刺を提示する彼女。
『pianist KANON NAKANO』
「あー、やっぱりそうだ! ピアニストの中野佳音さんじゃないですか。こんな所でお目にかかれるとは光栄です……いや、うちの娘も貴方の影響でピアノを習い始めたんですよ……あ、良ければ麦茶でもどうぞ」
学生時代、数々のピアノコンクールで最優秀賞に輝いた実績のある中野佳音は、ゴクゴクと喉を鳴らしながら麦茶を飲み干すのだった。
麦茶のおかわりも頂き、喉の渇きが癒えた彼女は、七歳だという警官の娘のために、五線紙を一枚取り出し、サインを書いて手渡した。
相当に喜んでくれた警官に見送られ、交番を後にした中野佳音は駅まで歩いた。
駅の近くのカフェに入ると、コーヒーを飲んだりパンケーキを食べたりしながら楽譜を書いて、午後の集合時間近くまで時間を潰した。
だが、そんな事があっただなんて、早起きが苦手な南雲は知らない。
◇
コントロール・ルームに居た南雲が、入ってきた彼女のために椅子を空ける。
中野佳音は微熱めいた顔を向けるも、もの凄く恥ずかしくなってすぐに顔を伏せた。
南雲の温もりが残る、ハイバックチェアは座り心地が良く、間もなく彼女は四十一時間ぶりの熟睡に入った。
コントロール・ルームは、ドアを閉じれば音は遮断される。
音響の井口の隣に座り直した南雲はヘッドホンを付けた。
リハーサルが始まり、ミュージックシーケンサーに入力していたデータ音源が流れる。
それを聴きながら、自分の楽譜にチェックを入てメモを取るバンドメンバー。
聞き終わった所でメンバーはそれぞれチューニングを行い、ミュージックシーケンサーに合わせて練習を始めた。
ミュージックシーケンサーに合わせた演奏を何度か繰り返した後、今度はシーケンサー無しの、リハを始める。
昨日も思った事だが、やっぱプロって凄いんだなと改めて感じる南雲。
高井戸美由紀はブースの隅の方で、マイクを通さないで練習しているようだ。
演奏ブースの手前には折りたたみ椅子が六脚並べられ、そこに座っている人物達に、腰が低い感じの低姿勢で何やら説明している豊洲。
どうやら事務所のお偉いさんでも来ているのだろう。
お偉いさん方の前では、流石の高井戸美由紀も僕にベタベタ出来ないんだろうな。うん、良い事だ。
一時間半が経過した。
豊洲が防音ガラス越しに合図を送ると、井口が中野佳音の肩をトントンと小さく叩いた。
ぼんやりと目を開けている彼女に南雲が声を掛ける。
「お疲れのようですが、大丈夫ですか?」
南雲の言葉に覚醒した彼女は、南雲に手を引かれて立ち上がると、気付いたようにスーツのポケットから、何かを取り出した。
「な、南雲さん。良かったらこれ……使って下さい」
綺麗に包装された小さな包みだった。
彼女は急ぐようにコントロールルームから出ると、ブースに置かれた電子ピアノへと着く。
マイクもセットされ、高井戸美由紀が位置に着いた。
――ランスルー開始。
「ワンツースリー……」
リードギター担当の神田が、エレクトリック・アコースティックギターを弾き始める。
間もなくベースが加わると、フルートが心地好い音を奏で始める。
コンガの音が鳴り始めると間もなく――高井戸美由紀が歌い出す。
「ガラスに覆われたオフィスの中。
コピーされる風景にー
散りゆく桜はー
想いを掻き立てる……」
……どうしちゃったんだ彼女は……昨日はあんなにダメダメだったのに、今日は滅茶苦茶声が乗ってるじゃないか。
「――ああー
卒業するもっと前にー
――ああー
貴方に触れていれば……」
キーさえ合っていれば、歌姫を演じるのは簡単……きっとそういう事なのだろう。
先日スタッフ一同が頭に描いた通り、正にそれは彼女の為の曲だった。
◇
『卒業式で貴方を好きになるなんて』
南雲が高井戸美由紀の為に作ったこの曲は、
――間もなく記録的大ヒットを飛ばす事になる。
(※ランスルー:本番を仮定して、ミスをしても途中で中止する事無く、最後まで通しで行うリハーサルの事)
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