マイダーリン

 歩いて行った方向だけを頼りに南雲を追いかけても、土地勘も無い彼女が迷子になるのは当然だと言える。


 たまに車が通るだけの寂しげな通りで、ガードレールのポールに両手をついて、苦しそうにゼェゼェと息を切らせる中野佳音。


 自分が向かっている方向さえ分からなくなった中野佳音は、大きめのショルダーバッグからスマホを取り出すと、ガードレールのポールに腰を掛け、自分の位置をマップ表示した。


 先程の駅を指定して、徒歩でのルートを表示させると15分と出た。


 彼は駅の近所に住んでいると言っていたわ。こんなに離れた場所では無い筈よ。


 南雲が「近所」という言葉を使ったのは、気遣いだとは思っていない。

 当然、自分が先回りしている事にさえ気付いていないのだ。


 ……別に今日じゃ無くたって、明日もスタジオで会えるのに……あたしったらどうかしてたわ。


 あれだけ走ったので、相当に疲れたのだろう。「よいしょ」と、清楚な女子らしからぬ声を出しながら立ち上がった。


「戻るには、こっちの道が早そうね」


 歩き始めた彼女は角を曲がると、100メートル程向こうに交番が有るのを確認した。

 間もなく深夜を迎える住宅街は人通りも無く、心細かったかった彼女は交番の灯りに安堵感を覚える。


 交番の前なら、深夜でも安心してタクシーが待てる。


 基礎体力に乏しい事を実感する中野佳音は、重く疲れた足取りで交番の近くまで歩く。

 交番の手前で一度立ち止まると、タクシー配車アプリを起動し、乗車場所を交番前に指定して予約を入れた。


 タクシーを待つ間、中で座らせてもらえないかしら。お願いすれば、冷たい飲み物も頂けるかも知れないわ。


 そんな事を期待する程に彼女は疲れ、喉も渇いていた。


 交番前に辿り着いた彼女に、何やら感情的な声が聞こえてくる。

 彼女は立ち止まると、中の様子を伺った。


「……ですから今までこんな事は無かったんです。きっと何か事件か事故に巻き込まれているんです!」


「そう言われてもね、事件とか事故の報告は無いし、彼だって二十歳を過ぎたいい大人なんだから……」


「いいえ、今まで一度だって夜の七時を過ぎても帰らなかった事は無かったんですよ? 絶対何かの事件か事故に……」


「いや、君……そもそもだけど、身内でも無い人の捜索願いなんて、受理される訳がないだろ」


「受理して下さいよぉぉぉ……グスッ、南雲さんがどうなってもいいって言うんですかぁぁぁぁ!」


 そう――交番の中でわめいているのは加賀谷だ。


 ……何だかみっともないわね、このタマネギメガネ君。


 そのタマネギメガネの言う南雲が、自分が焦がれて止まない南雲だとは思っていない中野佳音。


 お取り込み中の様だから、椅子も飲み物も諦めた方が良さそうね。

 クルリときびすを返すと、少しだけ交番から離れた。


 ふと隣を見れば、座るのに丁度良さそうな大理石で囲まれた花壇がある。

 マンションの入り口の様だけど、こんな夜中に出入りする人も居ないだろうと判断した中野佳音は、早速そこにハンカチを敷いて、タクシーが来るまで座ることにした。


 程よく冷めている大理石の心地よさに、彼女は間もなくウトウトとなった。


 ――ビッビッ。


 不意に鳴らされたクラクションが、微睡みから彼女を切り離す。


 いけない、あたしったら爆睡してしまうところだったわ。と、立ち上がろうとした。


 ――ところが、迎車表示で停まったタクシーは、突然タイヤを鳴らすほどの猛加速で発進した。


 キュキュキュキュ――ブィーーン!


 ……え、予約なのに乗車拒否――あっ!


 中野佳音の鼓動は破裂しそうなほどに高鳴る。


 何で彼が此処に……


 ――そこは彼の住むマンションの入り口。


 先程のタクシー運転手は、待っているであろう相手に知らせるために、軽くクラクションを鳴らしたのだが、いきなり睨んできた南雲を見て、取り調べから解放されたヤバい男に呼ばれたのだと勘違いし、「ごめん、他を当たってくれ!」と、心の中で叫びながら大慌てで逃げたのだ。



 偶然にも、普通に歩いて帰ってきただけの南雲。

 何だかクラクションが鳴ったので、ちょっと顔を向けただけだった。


 南雲は誰も責めない。

 高井戸美由紀に、お気に入りのサングラスを壊されたのだとしても。

 罪の無い人を怖がらせてしまったと、反省するばかりなのだ。


 クラクションで注意を逸らされた南雲は、その先に中野佳音が居る事に、全く気付いていないようだ。


 ……そんな南雲を他所に。


 あたしの――ダーリン――

 強い想いは鞭となり自身を打ちつけ、華奢な身体を弾ませた。


 受け止めて――あたしを受け止めて!


「南雲さん!」


 それは彼女が発した言葉では無かった。


 交番から飛び出してきた加賀谷。


「あれ、加賀谷……何やってんの?」


「それは僕のセリフですよ! 僕が……僕がどれだけ心配したと思ってるんですか!」


 身体能力を遙かに超える程のクイックターンで、慌てて植え込みの中に身を隠す中野佳音だった。

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