溢れ出す感情は抑えられない
夜の十一時を回った頃、南雲も含めたスタッフ一同はスタジオを出た。
表には、芸能プロダクション『㈱ダズリング企画』の所有するマイクロバスが、ハザードを焚いて停まっていた。
どうやら、高井戸美由紀専用のロケバスがお迎えに来たようである。
高井戸美由紀は、是非送らせて欲しいと言ってきたが、既に四時間も彼女に付きっきりだった南雲は頑なに断った。
結局ロケバスには、カメラマンの江古田を始め、音響スタッフと照明スタッフ。バンドメンバーからは、サイドギターとベーシスト、それとサックス奏者の三名が乗り込んだ。
南雲以外で残ったのは、ロケバスが帰るコースから大きく外れる所に住んでいる、リードギターを担当するギタリストの神田、ピアニストの中野、ドラマーの秋津、この三名だった。
フロントとその左右のウインドウ以外、スモークガラスで中が見えないロケバスを見送った後、大いに安堵する南雲。
只でさえ女性への抵抗力が無いに等しいのに、手を伸ばせば届く程の距離で、彼女に見詰められながら四時間もレッスンを行うなんて、それは精神的限界を迎えようというものだ。
南雲を見詰めるのに夢中な高井戸美由紀が、終始、上の空だった事も災いしているのだが……。
◇
昼過ぎから今までの長時間、ガンガンにエアコンの効いているスタジオに居た南雲らにとって、外は蒸し返したように暑く感じた。
貸しスタジオの入っている雑居ビルは駅にも程違い。南雲は帰路にも当たる為、残った三人と行動を共にしていた。
「暑っつうっ……あぁ、早く帰ってビール飲みてぇ」
ドラマーの秋津はそう漏らすと、半袖Tシャツの袖で汗を拭った。
秋津は恰幅も良く、まるで、ぶっきらぼうを絵に描いたような男なので、ハンカチを持っていないのが当たり前に思えてくる。
南雲がリュックを肩から外してハンカチを取り出す。
「遅くまで付き合って頂いて有り難う御座いました。これ、良ければ使って下さい」
流石のぶっきらぼうも、南雲の言葉と差し出されたハンカチに驚いた様子を見せる。
「えっ……いや、要らねえよ。袖で拭けるし」
言葉遣いで判断するなら、彼はどうやら立場よりも年功の序列を重視するような、先輩風を吹かせたがるタイプのようだ。
この男は、メタル、ハード、ラウド系から、スカやジャズといった、あらゆるジャンルに対応出来るほど腕は確かなのだが、三十七歳になった今もフリーでいる理由はそこにあった。
ぶっきらぼうな仕草と粗暴な言葉遣いから、態度が悪くて扱いにくい人間だと判断されがちで、これまで専属ドラマーという話が回ってこなかったのだ。
何か自分と似たものを感じる南雲は食い下がった。
「秋津さんが一番大変だったでしょうし、返さなくていいですからどうぞ使って下さい」
「疲れてんのはオマエの方だろ?」
「いえ、僕なんて歌ってただけです。それに、一番体を動かすのはドラムの秋津さんじゃないですか」
「おいおい、ラウド系のライヴじゃねえんだから」
その秋津の言葉を聞いた神田が腹を抱えて笑い出す。
「勘弁して下さいよ南雲さん。わはははははっ、あーっははははは……」
パフォーマンスの激しいラウドロックのライヴでもない限り、ドラマーはさほど疲れないという事を南雲は知らない。
どんなに激しい貧乏揺すりをしていても、疲れを感じる人は居ないのと同じで、ドラマーは激しく体を動かしている様に見えても、実際はスナップを多様している。
決して力任せに叩いている訳では無いので、素人が思うほど体力を消耗しないのだ。
プロのミュージシャンなら理解していて当然だと言える。
だからこそ今の会話は神田にとって、ナイスなボケに対する当然のツッコミのようなものだった。
目の前であれ程の実力を見せ付けられた神田と秋津は、南雲は音楽の知識も経験も相当に有しているのだと信じて疑わない。
だが、バンドを組んだ経験さえ皆無の南雲には、神田に釣られて秋津まで笑い始めた原因が分からなかった。
――ただ、ピアニストの中野佳音だけは、何となく気付いていた。
一度聴いただけで譜面に起こせる程の、絶対音感を持っている彼女だが、曲を作った本人が来るというのに、高井戸美由紀のマネージャー兼今回のMV制作の責任者でもある豊洲から「各パート毎の楽譜を作ってきてくれ」と、指示された事に疑問を抱いていたのだ。
然し、たった今――それが確信に変わった。
幼い頃からピアノに慣れ親しんでいる中野佳音にとって、ミュージックシーケンサーは楽器では無く、ただの玩具に過ぎない。
鍵盤も弦も無いあんな玩具で、あれだけの曲を奏でられる事が信じられなかった。
……でも、目の前に居たのは、あたしなんか及びもしない天才だったのよ。
あたしの今までの二十二年間は何だったの? ピアノに明け暮れた人生は何だったの?
……悔しい……ホント悔しい。でも、何なのよこの気持ち。
この近所に住んでいると言っていた南雲と別れた後、神田、秋津らと共に、駅の上りホームに入った中野佳音。
「ごめん、あたしちょっと用事を思い出しちゃって。ここで失礼するわね」
きっちりとした襟のブラウスに、長袖のスーツを着ていても尚、清楚な顔立ちが清涼感を漂わせている中野佳音はそう言って駆けだした。
駅の階段を降りた所で立ち止まる。
「確かこっちの方向に歩いてったわね……彼」
小さく呟いた中野佳音。
ストレートロングの黒髪を夜風に乗せて、ひた走る。
あたし、どうしても知りたいの。彼の事をもっと知りたいの。
今すぐ……今すぐ彼に会いたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます