その才能が彼女らを救う
十月の半ば。
朝夕の肌寒さに、パーカーに袖を通す季節を迎えた。
生演奏の様子を一台のカメラで収録しただけのYFDのMVは、僅か五週間で視聴回数が二億を突破した。
元々アップしていた静止画動画の方も視聴回数は多少伸びているが、やはり古いミュージックシーケンサーを使っているだけに、音質はあまり良くない。
南雲はダウンロードコンテンツも含め、商品としての販売は一切していないので、尚更音質の良いMVの動画視聴回数は、現在もかなりの勢いで伸び続けている。
一方、高井戸美由紀の歌手デビュー曲『卒業式で貴方を好きになるなんて』は、順調にCDやDVDも含め、音楽コンテンツの売り上げを伸ばしていて、歌詞を題材とした『映画』が、来月にはクランクインを迎えるらしい。
彼女にとって初となる学生以外のヒロインだ。
ここだけ見れば喜ばしい限りなのだが……
◇
南雲が通う大学のキャンバス内では、特に目立った変化は無かった。
ただ、本人が気付いた変化として、南雲から視線を逸らす学生が居なくなったという事くらいだろうか。
今までは『ぎゃっ、目が合った、怖いっ』と、瞬間的に目を逸らされていたのだが、『キャッ、目が合っちゃった、ドキッ』と、見詰められ続けるように変化したのだ。まあ、騒がれはしないが注目されるようになったという事だ。
ここまでの有名人が居て、騒ぎにならないのは意外だと思われるだろうが、南雲が通うような名門と言われる大学では実際そんなものだ。
それと、名門大学に限らず、都内でそれなりに学力が必要な大学に通う有名人は意外と多い。
そういった大学の学生ならば尚更、同じキャンバスに通う有名人に対して「そっとしておく」という心得が出来上がっているのだ。
学生以外でも東京に居を構える人々は、芸能人慣れしているというか、有名人に群がるのは、恥ずかしい行為だという意識が強い。
勿論だが、世間全体に視野を広げてみれば、東京とはいえ一部例外も存在する。
本人のプライベートを無視して、握手を求めたりサインを求めたりツーショットを求めたり……まあ、自己中というか、迷惑を顧みないというか、お花畑というか、要するに図々しくて厚かましい行いが恥ずかしいと感じなくなったお年頃の奥様(関西ではオバハンという)やら、我慢や遠慮という概念が未発達なお子様というのはどこにでも居るものだ。
ただ、その一人に応じてしまうと、例え周りが配慮を心得ている人ばかりだとしても、「みんな我慢してるのにあの人だけズルい。でも、オッケーみたいだから私も」などと、自分も同じような事をしないと損をするというような、ある種の集団心理が働く。
周りに人が多いほど、我も我もと連鎖が始まって騒ぎになってしまうのだ。
言わずもがな、握手会とかサイン会でもない限り、場慣れした有名人は愛想良く最初の一人に「プライベートなのでごめんなさい」と断るのが普通である。
どんなに愛想の良いイメージがある芸能人でも、「どうもどうも」と握手を交わすのは、人々の行動を制御できる数のスタッフを従えたカメラが回っている間だけだと認識して間違いでは無い。
特に人気の高い有名人ほど、人の多い公共の場でそれをやると「きり」が無くなる事を知っているのだ。
◇
――その日。
南雲、菅原、加賀谷の三人は学食でオムライスを食べていた。
相変わらず彼らは一番隅にある八人掛けのテーブルに着いている。そして彼ら以外は誰もそのテーブルには着いていない。
だが、周囲の意識は以前とは違う。以前は南雲が怖くて近付けなかったのだが、今では近寄るのもおこがましい『畏敬の存在』であると認識を改めているのだ。
そしてもう一つ。一応南雲から距離を取ってはいるが、南雲が見える位置のテーブルには、ギュウギュウに席が詰められている。
近寄りがたいとは言え、やはり女子学生達は、時の人である南雲を見たいのだ。然も今は休講時間で、場所も学食であって講堂では無い。
「ちょっと、押さないでよっ」
「そこ、もう少し詰めなさいよ」
人数はどんどん増えてくる。
学食を選択したのは迂闊だったと南雲は思った。
――何だこの人数。
「は、早く食べてここを出よう」
南雲は夢中でオムライスを口に運ぶが、その姿が彼女達にとっては堪らないようだ。
「恰好良いーー!」
「私、オムライスになって彼に食べられたーい」
――そこまでか⁉
南雲の気持ちとは裏腹に、該当者ではない菅原と加賀谷は、その状況をそれなりに楽しんでいるようだ。
二人は南雲の親友で有る事に誇りを持っている。決して自惚れているのでも甘んじているのでも無く、これからも親友でありたいと思っている。
ただ、オタクなだけなのだ。女子達に囲まれているという事実だけが嬉しかったに過ぎない。罪は無いので許してやって欲しい。
タバスコをたっぷり掛けたオムライスを食べ終わった加賀谷が、ペットボトルのミネラルウォーターを一気に半分ほど飲んだ後、南雲に顔を向ける。
「ところで南雲さん。誰に楽曲を提供する事になったんですか?」
「ええと……芝浦ひな乃とか言ってたけど……」
向かいに座っている菅原がテーブルの上にガバッと身を乗り出した。
「――なっ、ひなちゃんだと! それ、やっぱ月島さんが決めたのか?」
「うん。そうだけど……」
「羨ましいです南雲さん。でも、加賀谷さんへという添え書きのサインは絶対もらってきて下さいね」
◇ ◇ ◇
南雲が軽井沢から戻り、中野佳音と共にスタジオを訪ねていったあの時。
月島は、誰にも謝罪を求める様子のない南雲を見て、駒沢の手を払ってでも彼を止めて説得すべきだったと思った。
カメラマンの江古田が、南雲のMVのオリジナルデータが有る事を駒沢に伝えたというのは、南雲も豊洲からの伝言で聞いている。
ところが駒沢は「聞かなかった事にしてやる」とだけ言って江古田を帰している。
フリーのカメラマンとして名を上げたかった江古田が暴走したのだ。折角良い映像が撮れたのに、公表しないと言った南雲に不満を持っていたからだ。
だが、事細かな理由を説明せずとも、頭の良い彼には駒沢が悪役を引き受けている事が分かっているのだろう。
そう思わざるを得ない月島は南雲に敬意さえ抱いた。
全く関係の無い『雑談』を交わした月島が、テーブルに両手をついて立ち上がる。
月島が南雲と再会し『雑談』を始めるまでの経緯とその内容については、長くなるので後回しにする。
ただ、この雑談が南雲の心を動かしたのは事実だ。
「……君は今まで通りの学生生活に戻ってくれて構わない。ただ、パートナーとして力を貸して欲しいんだ」
「パートナー……ですか?」
南雲は誰も恨まない。南雲は誰も責めない。
ともあれ南雲はそこからの最善策を考える男だ。誰も不幸にしたくないと考えるのだ。
「勿論、上下関係のないパートナーだ」
南雲は先程の雑談で、月島が音楽業界でかなり高い地位にいる人だと理解している。当然腑に落ちない。
「何故僕を……」
「君が言いたいことは分かる。だがこの話は君にも損は無い筈だよ?」
「聞いてから判断します」
「ありがとう」
月島は、毎月一曲だけ指定した人に楽曲を提供してくれるなら、日常的なセキュリティーと会計処理を、自分が所属する大手のレコード会社である『ミャウパー・ミュージック』で引き受けるというのはどうだろうかと提案をした。
南雲も、広告収入だけで恐ろしく増えていく預金額を見て、税金ってどうやって納めればいいのか頭を悩ませていたし、顔が晒されてしまった以上はセキュリティー対策も考えなければならない。
マンションのロビーの隣りに交番が有るとは言え、南雲の部屋は一階の一番奥だ。
外に面している窓どころか玄関さえも、交番からは完全に死角になっている。
然も懸念すべきは、マスコミが既に待ち構えている可能性だ。
南雲の動画がアップされてそろそろ十時間が経過する。
以前、『YFDを歌っている男の正体に迫る』とかいう特番を放映していたテレビ局が、じっとしている訳が無い。
確かに良い案だが、南雲にはそれ以上に気になることが今は有る。
「……中野さんはどうしています?」
「心配するな。美由紀ちゃんが対応してくれている」
その言葉に南雲は安堵した。高井戸さんが付いてくれているのなら心配は無いだろうと。
「取り敢えずホテルを用意するので、セキュリティの万全なマンションを用意するまではそこに宿泊してくれないか。勿論、送り迎えのリムジンと運転手も手配させてもらうよ」
そして、覚悟を決めた様子の南雲の肩に、そっと手を乗せる月島。
「君の素晴しい才能が、多くのシンガーを救うんだ」
ぐっと南雲の肩を握った。
「彼女達の為にも是非、君の力を貸して欲しい」
え――じょ、女性限定っすか⁉
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