理性を保つ為のシナリオ
午後五時を少し回った南雲の部屋。
インターホンのチャイムが鳴ると、モニターで菅原の姿を確認した加賀谷がドアを開ける。
菅原は、持ってきたキャリーケースを部屋に運び入れた。
――話が飛んでいるので少しだけ時間を戻す。
本日の午後四時半過ぎに、菅原一家は軽井沢の別荘から戻って来た。
一家と言っても菅原は一人っ子なので、両親と祖父母の五人だ。
高級な国産ミニバンで帰宅した菅原一家が、着替えなどの荷物をそれぞれ降ろし終わった時、菅原のスマートフォンが鳴った。
加賀谷からだ。
「なんだ加賀谷。マスカルポーネシューは買ってあるから心配すんな」
「マスカルポーネシューはどうでもいいです。それより菅原さん、どうかカノン様の為に力を貸して下さい!」
……お土産は絶対マスカルポーネシューにして下さいと言っていたのに、どうでもいいとか、カノン様とか、加賀谷の言ってる事が全く理解できない菅原。
「落ち着けよ加賀谷。大体、カノン様って誰だよ?」
「ピアノ姫のカノン様ですよ。あ、今彼女と替わります……」
……ははぁん。
とかなんとか言って、南雲が出るってオチだろ。
いくら俺が中野佳音の大ファンだとはいえ、こんな手口に引っ掛かると思ってんのか……コイツら余程暇なんだな。
まあ、面白そうだから多少引っ掛かったフリでもしてやるか。などと考えていた。
「……あの、菅原さんですか? あたし、中野佳音という者ですが……」
――え……ほ、本物⁉
菅原はそこそこお金持ちのお坊ちゃまのくせに、加賀谷と同位に位置するオタクだ。いや、コアな部分だけを見れば、加賀谷以上かも知れない。
両手では全く弾けないが、家にグランドピアノが置いてあるので、片手コード(和音)だけならキラキラ星が弾ける菅原は、過去に中野佳音が出場していたピアノコンクールの動画をコンプリートしている。
勿論だが、彼女が三年連続で最優秀賞に輝いた時のインタビュー映像も含まれる。
声だけで本人で間違いないと確信した菅原は、恐れ多い面持ちで耳を傾けた。
……そして約三分後。
どうも彼女が言うには、極悪非道な悪徳プロデューサーに追われている所を、たまたま通り掛かった南雲に助けられたという事らしい。
……南雲がボディーガードなら心配は無いだろう。心置きなく手を貸そう。
――カノン様の為に!!
そこそこ豪華な邸宅の、広いドレッシングルームに駆け込んだ菅原は、先程車から降ろしたキャリーケースの中身をそこにぶちまけると、「父さん、ちょっと車借りるね」と言って、車で五分程の距離にある、南雲の部屋にやって来たのだ。
……だが、「悪徳プロデューサーに追われている所を南雲が助けた」という、インチキ臭いシナリオを考えたのは南雲だ。
◇
中野佳音は昨夜、植え込みに身を潜め、南雲と加賀谷のやり取りを見ていた。
加賀谷は、連絡も入れないで南雲が遅く帰ってきた事を怒っていた。
それに対し南雲は、携帯電波もWi-Fiも入らない場所に居て、どうしても途中で席を外せなかったのだと説明をした。
そこに警官が「彼だって子供じゃ無いんだから」と言ったので、「そういう話じゃ無いんです!」と、加賀谷は警官に食ってかかった。
大切な親友だからこそ加賀谷は心配したのだ。
加賀谷をなだめ、心配させてごめんと謝る南雲。
「謝らないで下さい南雲さん。無事ならそれで良いんです。じゃあ、僕はこれで帰ります」
ハーフメットを被った加賀谷は、そこに停めていた原付バイクで帰って行った。
中野佳音はそこまで愚かではないし、頭だって悪くない。
そんな南雲の大親友に見せ付けるように、手を繋いでいられる筈は無かったのだ。
玄関入ってすぐのキッチンに居る加賀谷を見て、咄嗟に南雲の手を離した。
彼女が南雲の手を離したその次の瞬間、お手々つなぎ人生初体験の呪縛は解かれ、思考回路をフル稼働させた南雲は、全てのストーリーを組み立て、加賀谷を説き伏せてしまったのだ。
中野佳音としては、加賀谷に状況を説明するのは容易ではない。
相手が南雲の彼女だと思ったからこそ、彼とラブラブな「あたし」を見せ付ける事で、精神的ダメージを相手に与え、あわよくば別れさせられるなどと、よからぬ企みがあったのだ。
それが彼の親友なら話は別だ。自他共に認める彼女に「あたし」がなる為には、心証を悪くする事だけは避けなければならない。
ツッコミどころは満載だったが、中野佳音は南雲の「話」に合わせるしかなかった。
ところが、女性に対して免疫が無いのは加賀谷も一緒だ。
南雲の話の合間合間には中野佳音も、「ええ」とか「ですね」とか「そうなんですよ」とか、終いには「ね、酷いでしょ?」と、付け加えてくる。
――疑う余地などない。と、完全に洗脳された加賀谷。
そして、キャリーケースを持ってやって来た菅原も、スマホに彼女が出た時点で洗脳されている。
◇
ミニバンに乗り込んだ四人が、最初に向かったのは郊外にあるショッピングモールだ。
南雲の着替えは既にキャリーケースに詰め込んである。ここで購入するのは中野佳音の着替えだ。
そして、買い物を終えた午後六時五十分。
菅原の運転するミニバンは、軽井沢にある菅原家の別荘へと向かって走り出した。
南雲は高井戸美由紀の意図を考えた。
コントロール・ルームに入ってきた彼らに向かって「どうすればいいですか?」と言った途端に、高井戸美由紀の態度は一変した。
僕には関わって欲しくなかったのだと考えるべきだろう。
それは置いておくとして、問題なのは中野佳音だった。
三列シートのミニバン。運転は菅原で助手席には加賀谷。
加賀谷の後ろの座席には南雲が座り、その後ろの最後部座席で、横になって爆睡している中野佳音。
恋愛経験の無い南雲でも流石に気付く。どういう訳かは分からないが、中野佳音にもの凄い好意を持たれていると。
恐らく彼女は絶対に僕から離れないだろう。そうなると、ベッドが一つしか無く、距離も取れないワンルームマンションは非常に危険だ。
もしも加賀谷が来て居なければ、理性を保てていたかどうかすら定かではない南雲は、加賀谷に合鍵を渡していて良かったと、つくづく思った。
彼女が嫌だという訳では無い……むしろ、割と好みのタイプだから大歓迎だ。
でも、それでは駄目なんだ。こんな僕に関わってくれた『全員』を裏切る事になるから。
南雲は、菅原の別荘なら中野佳音と距離を取る事が可能だと考えた。
何しろあの別荘には、バスルームを兼ね備える独立したベッドルームが五部屋も有るんだから。
先ずはそこからだ。そうしなければ女性への抵抗力の無い僕は、再び無力になってしまうだろう。
環境の確保さえ出来れば、じっくりと状況判断する事が出来る。
◇
時刻が夜の八時を回った頃。菅原の運転するミニバンは関越自動車道から上信越自動車道に入った。
中野佳音を起こさないよう気を遣う三人は会話すらしていない。
徹底的な静音設計の高級ミニバンの車内は無音だった。
勿論だが、世間では先程公開された高井戸美由紀のPVの件で大騒ぎになっているという事を、車内に居る四人は知る由もない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます