暴走するピアニスト

 一方、中野佳音に腕を引かれながらスタジオを出た南雲。


 何で僕は抵抗できないんだろう……そう思ったが、思考はまとまらない。

 何もかもが初めての体験で、自分は夢の中に居るのではないかとさえ思った。


 中野佳音に身を任せるように歩き続ける南雲だったが、ようやくある事に気付く。


 ――彼女は何故、僕の住所を知っているんだ?


 南雲は三丁目交番が見えてくると、中野佳音は自分が住んでいるマンションに、真っ直ぐ向かっているのだと思わざるを得なくなった。

 それに、「彼がたたんでくれたハンカチ」という言葉も気になる。


 南雲は朦朧もうろうとしながらも頭を巡らせた。


 たたんだハンカチというのは、恐らく昨晩のハンカチで間違いない。僕がたたんでいる様子も彼女は見ていたという事なのだろう。


 ……という事は、彼女は僕と同じマンションに住んでる?

 いや、そうとしか思えない。

 落とした事に気が付いて取りに来たけど、僕が怖いからロビーの何処かに隠れていたんだろう。


 それは納得出来る……でも、彼女は昨晩、駅の改札に登っていった。

 ……という事は、あれは僕を避けるためのカムフラージュで、僕の姿が見えなくなってからタクシーに乗って、先回りして帰ったに違いない。


 うんうん、だからタクシーが居たんだ。やっぱ僕の顔って、女性にとってはいくら知ってるとはいえ怖いのだろう。まして夜も遅かったし。


 ……いやいやいや、そもそもだけど、そこまで避けたい男の腕を引けるものだろうか。あんなにグイグイと。


 ――え、今気付いたけど、僕って……生まれて初めて女性と手をつないでる⁉


 最初は腕を引っぱられていたのに、いつの間にか手を引かれているのだ。


 何故、高井戸美由紀が中野佳音に、僕を連れ出すように頼んだのかは分からない。

 けれど、何も抵抗しないで中野佳音に連れられるままスタジオを出てきた僕は、なんて無力な男なんだ。


 僕って……最低だ。


 全ての責任は僕にあると思っていながら、心の隅には逃げたい気持ちもあった。

 だから僕は、彼女に付いてきてしまったんだ。


 ◇


 三丁目交番の中に居た柏木巡査部長が声を掛ける。


「やあ南雲君――おぉっ! ついに彼女が出来たのかい?」


「いえっ、柏木さん……彼女は彼女ではなくて、あ、いえ、彼女は彼女であって……」


 力強く、ギュッっと南雲の手を握り締める中野佳音。勿論顔は真っ赤だ。

 だが南雲は、自分でも何を言っているのか分からなかった。


「可愛らしい彼女じゃないか。全くお熱いことで……はっはっはっ……」


 柏木巡査部長は笑いながら、納涼大会と書かれた団扇で、パタパタと自分の顔を扇いだ。


 ◇


 マンションのロビーに入る。


「南雲さん、何号室ですか?」


「い、108(イチマルハチ)号室ですけど……」


「それは、一階の八号室ですか、それとも十階の八号室ですか?」


 ――同じマンションに住んでるのに、そんな事も知らないの? そう思った南雲。


「あ、あの……」


「一階ですか、十階ですか?」


 ふざけている様子は全く見当たらない中野佳音が聞き直してきた。


「このマンション、七階建てなんですけど……」


「分かりました、一階ですね。さあ、行きましょう」


 グイッ。


「……え、ちょっ……」


 ――グイグイッ。



 108号室は一階の一番奥の部屋だった。


「南雲さん、早く鍵を開けて下さい」


 だが、中野佳音は一向に手を離してくれる様子は無い。


「な、中野さん。もしかして、僕と一緒に入る気ですか?」


「当たり前じゃないですか」


 入る気満々な彼女を見ても、何が当たり前なのか分からない南雲。それは当然だ。

 南雲は精一杯に頭を巡らせた。


 ……うん。幸いなことに、カードキーを入れているリュックは、あのスタジオに置いたままだ。


「鍵はスタジオに置いて来ています。スタジオに戻りましょう中野さん」


「南雲さん、こっち来て」


「はい?」


 グイ。


「この窓を破って入りましょう」


「――えっ⁉」


 当然のような顔の中野佳音が周囲を見渡す。


「何処かに、丁度良い物が落ちてないかしら……」


 廊下に面している南雲の部屋の窓を、破壊するのに丁度良さそうな武器を本気で探しているようだ。


「な、中野さん!」


「何でしょうかマイダーリン……あ、いえ」


 ――瞳を合わせた中野佳音が、ポッっと頬を染めた。


 マイマスターみたいな言い方で、マイダーリンとか言うのはやめてくれ。

 ……だって、ドキドキしてしょうがないから。と、オタク色の濃い南雲は思った。


「な、中野さん……この時間、鍵は掛かっていないと思います」


 南雲という自分の憧れの存在が、そんなに不用心な筈は無いと思った中野佳音。


「何故……そう思うのです――あっ⁉」


 そうよ……こんなに恰好良い彼に、彼女が居ない筈は無かったわ。


 グッ――と下唇を噛む。


 ……このまま帰れるもんですか。ええ、引き下がる気なんて毛頭無いわよ。


 ――南雲の手を握り締めているもう片方の手で、ドアノブに手を掛ける中野佳音。


 制止しようとした南雲を力任せに引き寄せた。


 グイッ、そしてドアノブをガチャ――



「おかえりなさい南雲さん、今日は早いんですね。今からカレーを作るところですけど、昨日のカレーが残っていますから、お腹が空いているのなら先にそれを食べて下さい」


 そこに居たのは、夏休みに入ってから、最早押しかけ女房と化している加賀谷だ。


「あ……加賀谷、いや……これはその……」


「何ですか。今日のカレーはタマネギ多めの予定ですよ? 文句があるなら昨日のカレーを食べ尽くしてから言って下さい」


 バイク用のゴーグルを装着してタマネギをカットしていた加賀谷だったが、何やら南雲の様子がおかしいと気付く。


 ゴーグルを外すといつもの眼鏡を掛けた。


 加賀谷は、南雲より遙か上位に位置するオタクだ。


 当然だが可愛い生き物は熟知している。可愛いだけのアイドルは勿論、可愛さの中に知性が漂っている中野佳音もその範疇だ。


「……か……ノォォォォォーーン!」


 と、叫んだ。

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