押しも押されもせぬ大スター

 顔を手で覆ったままの南雲を見て、少しだけ悲しそうな表情を浮かべた阿佐ヶ谷ゆうみ。


「……失礼しました」


 ペコリと頭を下げると足早に去って行った。



 しばしの沈黙の後。南雲は自己の結論に至る。


 顔を隠していたので、きっと誰かと間違えたんだと。


「南雲さん、顔を隠し続けた事に感謝です。あ、もう彼女は居ないので、顔は隠さなくてもいいですよ」


 加賀谷は、元アイドルを間近で見られた事に、未だ興奮冷めやらぬ様子で、南雲にとっては暴言とも取れる言葉を吐いた。

 だが南雲は、いつもの事なので全く気にしない。


「南雲を誰と間違えたんだろう……でも俺、母親以外で数ヶ月ぶりに女性と会話した気がするよ」


 勝手に返事をしただけなのに、会話したとか言っている菅原も、やはり同じ結論のようだ。


「食べ終わったし、早く学食から出よう。何だか周りからの視線が痛い」


 顔を伏せたままの南雲が立ち上がると、今まで南雲に注目していた連中が一斉に視線を逸らす。


 南雲が極端に猫背な理由がお分かりだろうか。

 そう……只でさえ背が高いので、少しでも周囲の人を怖がらせない為に、顔を伏せる事が習慣化しているからだ。


 混み合っている学食の中で、南雲が居る位置から食器返却口まで、まるで雀の群れに鷹が飛び込んだが如く、綺麗に通路が開かれた。


 顔を伏せていて尚、圧倒的コワモテの南雲の前に、立ち塞がる勇気のある者など居ない。

 そして、この姿勢が三白眼をより強調させ、逆効果になっているという事に、心優しい南雲本人は気付いていないのであった。



 ただ、この三人は知らない。いつもより多くの学生達が、このテーブルに注目していた本当の理由を。


 だが、その理由は単純だ。


 量産型アイドルグループで埋め尽くされていると言っても過言では無い業界に於いて、歌唱力抜群で容姿麗しくも可愛いソロシンガーの阿佐ヶ谷ゆうみの存在は大きかった。


 彼女の支持層には年齢や性別などの偏りが無く、その人気は絶大だったのだ。


 彼女は十六歳でデビューし、十七歳で引退。僅か一年の活動期間だったが、数々の売り上げ記録を残している。


 その場に居合わせた学生達は、元アイドルとはいえ未だ誰しも近寄り難い存在の彼女が、自ら話し掛けた人物に注目していたのだ。


 ――そして、澄み切っていてよく通る彼女の言葉。

『……呼ばれた気がして振り向いてみたけど誰も居なかった、だよね?』


 これが学生達の話題にならない筈が無い。


 南雲達が去った後、学生達はそれぞれの携帯端末で検索を始め、間もなくガヤガヤと騒がしくなった。


 特に女性の大多数が、南雲の曲に聞き惚れて賞賛した。


 こういった事には男性よりも女性の方が敏感だ。良いと感じた物は他人にも勧めたくなる気持ちが強い。


 女性達の心を捕らえたこの曲は、南雲の知らぬ間にSNSなどで拡散され、その日のうちに視聴回数は百万を超えた。


 そうなると、急上昇欄のトップに出てくるのは必然となる。


 ◇


 凄いことになっていると、一番最初に気付いたのは加賀谷だった。

 初めて聴いた南雲の歌声が頭から離れず、寝る前にもう一度聴きたくなったからだ。


 加賀谷はすぐに南雲と連絡を取り、視聴回数が百万を超えている事を伝えた。


 ド素人が勢いだけでアップした動画。それもタイトルを貼り付けただけの静止画動画だ。

 当然、収益化など全く考えていなかった南雲だったが、条件はもう揃っているという加賀谷からのアドバイスもあり、収益化プログラムの登録を行った。


 四月末のこの時の南雲は、パソコン買い換え資金の足しくらいにはなるかな程度にしか思っていなかった。



 ◇ ◇ ◇




 大学から歩く事およそ八分。

 そこに南雲が住んでいるワンルームの賃貸マンションが建っている。


 マンションのオーナーは菅原の祖父だ。

 菅原の祖父は以前から南雲を気に入っていて、本来十万円の家賃を半額の五万円にしてくれている。


 そのマンションの入り口は、三丁目交番のすぐ隣りにある。


「やあ、南雲君こんにちは。暑い中お出かけかい?」


 交番の前に立っていた警官が声を掛けると、南雲は掛けていたサングラスを外した。


「こんにちは柏木さん。ええ、駅まで出掛けるところです」


「丁度良かった。新しくこの交番に配属された新入りを紹介しておくよ」


 柏木という警官が、交番の中に向かって声を掛ける。


「おーい瀬田君、ちょっと来てくれ」


 その新入りらしい瀬田という警官は、キビキビとした足取りで出てくるなり、南雲を見て身体を硬直させた。


「か、柏木巡査部長! 犯人確保でありますか⁉」


「いやいや、彼はこう見えて真面目な学生さんだから、君にも知っておいて欲しいと思ってね」


 おおらかな感じの巡査部長のお陰で、この交番では職質される事は無い。新入りへの挨拶を済ませた南雲は、再びサングラスを掛けると歩き出した。


 九月に入り、夏休みも終盤を迎えたが、南雲は休み中に外出する事は滅多に無かった。

 ただし、毎日のように加賀谷が食糧を携えて、南雲の部屋を訪れていたので、飢えるような事も無かった。


 一方、菅原はといえば、家族で軽井沢の別荘に行っているらしい。

 まあ、祖父がマンションを所有している事から分かるように、菅原家はそこそこのお金持ちなのだ。



 南雲は一人で外出する場合、サングラスを掛ける。

 べっ甲柄で丸みを帯びたボストン型サングラスは、何となく柔らかい印象を与える。


 現に南雲は、サングラスを掛けるようになってから、知らない人にいきなり謝られる事や、角を曲がった出会い頭に悲鳴を上げられる事が無くなったと実感している。



 残暑厳しい暑さの中を歩く事十五分。

 駅の近くの雑居ビル入り口付近から声が掛かる。


「南雲さん、こっちですー」


 ギターケースを担いでいるその男に、南雲は軽く頭を下げると、後を追うように地下への階段を降りた。


 その雑居ビルの地下には貸しスタジオがあった。


 開かれる重厚な防音扉。

 真っ先に進み出て、この上ない笑顔で南雲を迎えるのはとても美しい女性だった。


 この女性の名前は……いや、芸名は高井戸美由紀。歳は二十四。

 映画やドラマで大活躍。押しも押されもせぬ大スターである。

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