たとえ神様が許しても、彼女のファンが許さない

 高井戸美由紀と会うのはこの日が初めてだ。


 スタジオに入るなり、笑顔で握手を求められた南雲は戸惑った。

 何故なら、初対面の相手に対し、サングラスを掛けたままでは大変失礼だが、サングラスを外せば大層怖がらせてしまうというジレンマに陥ったからだ。


 それに、いくら芸能関係に疎い南雲でも、あちらこちらに貼られている様々な宣伝ポスターでの、彼女の採用比率は高いので、否が応でも目に入る。


 そんな、雲の上の存在でもある彼女。

 この美しい笑顔を恐怖で歪める事は、たとえ神様が許しても、彼女のファンが許さないだろう。


「大丈夫ですよ南雲さん。彼女は了承済みなので、そのままでいいですよ」


 そう声を掛けてきたのは、十日ほど前、南雲にコンタクトを取ってきた、豊洲という男だ。

 この男は高井戸美由紀のマネージャーだ。


 申し訳なさそうに、彼女の握手に応じる南雲だったが、女性への耐性の無い南雲の心臓は、バクバクと張り裂けんばかりだった。


「フフッ、可愛い」


 そう聞こえたが空耳だと思う事にした。



 先程、表で南雲を待っていたギタリストの神田という男も含め、一応の挨拶を済ませた関係者一同。その数は十四名。


「では、楽譜を作ってきていますので、皆さんにお配ります」


 パンツスーツがよく似合っていて、清楚な雰囲気を存分に醸し出している女性が、それぞれバンドメンバーに楽譜を配り始めた。


 勿論だが、音楽ド素人の南雲は、楽譜なんて書けないし読めない。なので、ピアニストの中野というこの清楚な女性が、パート毎の楽譜を作ってきたのだそうだ。


 流石プロ。などと、感心している南雲だったが、間もなくリハーサルが始まると、何だか自分だけ場違いな気がしてならなかった。



 ところが……


「ラララーララー、振り向いた貴方のー、笑顔だけをー想ってー……」


 高井戸美由紀が歌い始めたが、お世辞にも上手いとは言えなかった。


 ミキシングコンソールなどの、様々な録音機材が置かれているコントロール・ルームに居た南雲に、高井戸美由紀のマネージャーの豊洲が声を掛ける。


「すみません南雲さん。これが彼女の現実なんです……」


 演技力に極振りしたら、トンデモナイ音痴になりました……そういう事なのだろうか。


「ですから一度、生で南雲さんに歌って頂きたいなと、来て頂いた次第で御座いまして……お願いします! どうか……」


「頭を上げて下さい豊洲さん。僕に出来る事なら力になりますから」


 豊洲の、熱い要望のこもった土下座に押され、やむなく承諾してしまう南雲だった。



 ◇



「ワンツースリー……」


 先ずは神田のギターソロ。


 アコースティックを極めしギタリスト(自称)だが、これがまた滅茶苦茶上手い。

 それを追うような、軽やかなるピアノの音。そしてドラム。


 ポロンポロンポポン――タタンットントンッ……


「いつもー……見ていますー……」


 ――タンッ! チャカチャカ……


「ええ、いつだってー見ていますー……」


 ――タンタンタンタン、カッカッシャーン。


「ラララーララー、振り向いた貴方のー……」


 高井戸美由紀が歌っていた時よりも、明らかにバンドメンバーのテンションは上がっている。


 それは南雲の歌声に、まるで釣られているかのようだった。


 充分にその違いを感じた高井戸美由紀が声を張り上げる。


「ストーップ!」


 明らかに不愉快そうな態度なのだが……何故か頬を染めている。

 まるでツンッとしたどこぞのお嬢様が、ふんぞり返って腕を組みながらもデレている様な感じだ。


「ね、ねえ貴方。わた、私にレクチャーしたいなら、そのサングラスを外して頂戴よ」


「いや……それは流石に……」


「貴方に分かるかしら? 私くらいの女優になると、どんな事でも演技でカバーできるって」


「そ、そうなんですか?」


「ええそうよ。歌姫の演技をするのだって、私にとっては簡単な事なの……」


 南雲の目前に、ズイッと迫った高井戸美由紀。


「分かったら、私に歌ってる時の表情を見せなさいよ」


 ふぅ……と、小さく息を吐いた南雲。


「お断りします」


「私のお願いが聞けないって言うの? それとも、私にはそんな演技はできないって言うの?」


「ええ。僕を演技するなんて無理だと思います」


 ――パシッ!


 南雲のサングラスが、カラカラと床を転がっていく。


 慌てて顔を隠そうとする南雲の両腕を、ガッシリと掴んだ高井戸美由紀。


「こんなに……こんなに素敵な顔なのに……」


「――え⁉」


 まるで怖がる素振りを見せない彼女の瞳は明らかに潤んでいた。


「お願いそのまま……今ここで私に……私だけに歌って見せて」

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