何を求めているのかが重要

 間もなくアイドル歴四年目を迎える芝浦ひな乃は、以前の事務所でもボイスレッスンを受けてきたので、基礎も出来ていて決して歌が下手だという訳ではない。


 アイドルグループとして見た場合は何の遜色も無いだろう。


 ところが月島は、彼女が何度歌ってもOKを出さなかった。


 南雲の歌声は勿論、高井戸美由紀の歌声のように、聞いた人の心に響く波紋のような感動は与えられないと感じたからだ。


 曲も歌詞も完璧だ。だが芝浦ひな乃の歌声には、何かが……何かが足りない。


 現在、芝浦ひな乃に歌のレッスンを行っているのはプロのボイストレーナーだ。

 そのボイストレーナーはこれまでも多くの歌手を手掛けていて、どんなに音痴のアイドルでも、きっちり仕上げてくるので、評判も良くて腕も確かだ。


 月島は、芝浦ひな乃の面倒を南雲に押し付けるのは筋違いだと考えていた。

 そもそも彼は学生であるし、専属契約をしている訳では無い。委託のような形だが、今月(十月)分の曲はもう提供してもらっている。


 だから中野佳音がやって来た時に、音源として歌ってもらって以来、南雲を呼んでいない。


 芝浦ひな乃は南雲に会いたいとせがんだが、月島は断固として首を縦に振らなかった。


「きちんと歌えるようになったら会えるから、それまでは我慢してくれ」


 会いたいという強い想いが反映されれば、今までの彼女に無かった歌唱力に繋がる。

 それはボイストレーナーも同意見だった。


 ◇



 十月二九日。第七スタジオ。



「月島さん。お呼びですか?」

「佳音ちゃん、バンドメンバーの仕上がりはどうだい?」


「完璧です」

 そう言って、何だか機嫌良さそうな中野佳音は微笑んだ。


 本日はレコーディングなので南雲が立ち会いに来る。だから機嫌が良いのだ。


「ふうむ……では、ボーカルは別録りにするから、バンドの皆に声を掛けて演奏ブースでスタンバイしてくれないか?」


 すると、月島の横に居た芝浦ひな乃が不満そうな顔をする。


「えぇー? なんで私だけ別なのよ」


 バンドの音源さえ録音出来れば、歌は後から付け足せば良い。今の芝浦ひな乃ではまだこの曲は歌いこなせない。月島はそう判断したのだ。


 どう返答をしたものかと腕を組む月島に、哀願の目を向ける芝浦ひな乃。


「ナグさんの前で歌いたいの。お願い月島さん、演奏ブースで歌わせてよ」


 南雲が来るのは、複合型である第七スタジオの中央部にあるコントロール・ルームだ。

 金魚鉢とも言われるこのコントロール・ルームは割と広く、それぞれ防音ガラス窓で隔たれてはいるが、広めの演奏ブース、多用途楽器ブース、ドラムブース、ボーカルブース、アンプブースなど、各ブースの様々な管理が、中央部にあるこのコントロール・ルームで全て行える様になっている。


 然し、ライヴ風な音源が録りたかった月島は、ボーカル以外のブース分けをしなかった。


 そして、一人だけ分けられたボーカルブースの芝浦ひな乃に付くのはボイストレーナーだ。


 芝浦ひな乃をレコーディングに参加させる気は無いので、ボーカルブースの防音ガラス窓には、ロールスクリーンが下ろされていた。


 自分だけ蚊帳の外。彼女にとっては屈辱的だ。


 ……みんながレコーディングをするのに、なんで私だけあんなオバサンとマンツーマンでボイスレッスンなのよ!


「お願いよ月島さん……もう絶対にわがまま言わないから、ナグさんの前で歌わせてよ……」


 涙目にさえなっている芝浦ひな乃だが、中野佳音には彼女の気持ちが痛いほど分る。


 中野佳音が芝浦ひな乃に顔を向ける。


「芝浦さん……」

「な、何よっ」


「南雲さんに歌を聞いてもらいたいのですよね?」

「当たり前じゃないの。だって大好きなんだもん!」


 涙まで零し始めた芝浦ひな乃に、中野佳音は含みのある笑顔を見せる。


「頑張りましょうね」


 芝浦ひな乃はその笑顔を見て、コイツ嫌な女と思った。

 ナグさんと以前から知り合いだったかも知れないけど、何よ……その上から目線。あんたなんて大っ嫌い!


 恨めしそうに睨んでくる芝浦ひな乃を他所に、中野佳音が月島に声を掛ける。


「月島さん。彼女のマイクも演奏ブースにセットします。南雲さんの前で歌わせてあげて下さい」


 ――えっ、ヤダ……嫌な女なんて思っちゃってごめん。凄くいい人じゃないの。


「いや、待ってくれ佳音ちゃん。彼女はまだ完成していな……」


 その言葉を遮るように、中野佳音がキリッとした視線を月島に向けた。


「いいえ月島さん。この曲は南雲さんが聞いてくれるからこそ、初めて完成する曲なのですよ?」


 月島はハッとする。

 ……多少の手間は掛かるが、駄目ならボーカルの音だけ消せば済む。


「……まあ、佳音ちゃんが言うのなら良いだろう」


 そして他のスタッフに声を掛ける。


「一応カメラもスタンバイしてくれ。使えそうな部分はPVやMVに貼り付けるから」


 ――そして間もなく南雲が到着する。



 ◇ ☆




 菅原のシンセが小気味の良いピッコロの音を響かせ始めると、それに合わせて中野佳音がピアノを弾き始める。


 神田のエレキギターと秋津のドラムが、ズバーンと入り、スーッと引いたタイミングで、加賀谷のベースが加わると芝浦ひな乃が歌い始める。


 ――月島は唖然となる。これが本当にあの芝浦ひな乃なのか……と。


 潤ませた瞳を、コントロール・ルームに居る南雲へと一心に向け、


 これ以上無い程の甘え声で歌っているのだ。


 ……衝撃と感動で鳥肌まで立ってくる――何なんだこの歌声は。



「ふううーううぅー……

 だけどーいつかー……んんー……


 だけどぉーいつかぁー、たどり着きたいのぉ――

 甘えたい放題なぁご主人様の元へー……

 んんーふううーううぅー……」



 無意識に拳を握り締める月島。


 俺が求めていたのは……

 ――これだ!!


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