計算か天然か、その判断は難しい

 それは一瞬のタイミングだった。


 南雲が午後からの受講をキャンセルして、芝浦ひな乃と一緒に月島のオフィスに行くと言い、それを聞いた芝浦ひな乃がピョンピョンと跳ね回った時点で、菅原は加賀谷の眼鏡を外した。


 流石の菅原も、自分の中で可愛い生き物トップ3に入っている芝浦ひな乃に文句は言えない。なので、眼鏡を外せば無敵になる加賀谷に、存分に文句を言って貰おうとして加賀谷の眼鏡を外したのだ。


 南雲の顔が見える位置に居た菅原は、眼鏡を外す為に加賀谷に顔を向けていたし、眼鏡を外された加賀谷もド近眼なので、その『キス』の様子は見えていない。


 そうだ。観衆も含め、これだけの人数が居るのに、誰一人として見えていなかったのだ……


 ……それは南雲のファーストキス。


「ケチャップ付いちゃった。エヘッ」ペロリ。


 ペロリの時は南雲が死角となっていた。皆が彼女の顔を確認できた時には、既に彼女の唇に証拠は残っていなかったのだ。


『――何処にケチャップ付いたんだ⁉』って、皆思うわな。


 すると芝浦ひな乃は、南雲のスプーンが置かれていた紙ナプキンをトレーから拾い上げると、さもそこに付いていたかのように自分の頬を拭った。


 ……なんだ、ほっぺか。と、皆がホッとしたのは言うまでも無い。


 もしも芝浦ひな乃が南雲の唇にキスをしたという確証が得られていれば、特に南雲ファンの女性達はヒステリックに騒ぎ立てていただろう。


 これは何かのトリックかと思える程、芝浦ひな乃は大胆に『キス』というプレゼントを南雲に成し遂げたのだ。


 当然だが、恋愛経験が皆無の南雲は心臓が破裂しそうだった。


 ――ちょっとなにこれ……いやいや……なにこれ。


 僕の……僕のファーストキスが……いや……待て待て、今のはバードキスだ。カウントには入らないだろ。爺ちゃんだって僕が幼い頃にチュウしてきてたじゃないか。それと同じだ。


 いや……そもそも爺ちゃんのは頬や額だ。決して唇ではなかった。

 そしてこれは……正真正銘、人生初の異性とのキスだ。

 ……でも、こんな可愛い子で良いんだろうか。夢かも知れない。


 茫然自失な南雲だが、そういった表情は他人には読み取れない。彼は元々表情が少ないのだ。


 笑ったつもりでも「怖い」

 驚いたつもりでも「怖い」

 悲しくても「怖い」

 辛くても「怖い」

 ぼーっとしていても「怖い」


 そんな顔なのだと、南雲本人はずっと思ってきた。


 他人が自分に対する明らかな変化は、南雲のMVがアップされてから起こった。

 顔が知られると共に、サングラスを掛けなくても怖がられなくなった事は南雲も納得している。


 悪いことをして晒される訳では無いのに、頑なに公開を断っていた自分が恥ずかしくなっていた。そのうち江古田に会ったら、撮影してくれた事と動画をアップしてくれた事にお礼を言わなきゃいけないとも考えていた。


 逸れそうなので話を戻すが、これまでの登場人物で、恐らく彼の表情を読み取れるのは、浩一という祖父と、祐子という祖母以外では、観察眼の鋭い月島くらいのものだろう。


 菅原と加賀谷でさえ未だ南雲の表情は『あやふや』なのだ。



「ナグさぁん。いっぱい付いてるから拭いてあげる」


 そして、芝浦ひな乃は自分の頬を撫でた紙ナプキンを裏返すと、それを使って甘えるような瞳で、オムライスのケチャップが付いている南雲の唇を拭き始めた。


 なすがままに紙ナプキンで唇を拭かれている南雲。


 その様子はまるで……


『もう、お兄ちゃんったら、ホントだらしないんだから。いいよ、お兄ちゃんじっとしてて、私が拭いてあげるー』


 恋人同士という感じでは無く、『ほのぼの』とした、可愛い妹とお兄ちゃんの構図だ。


 この場に居る全員が『それな』って思った。



「ひな乃さん、わがままは言わないで下さいよ。それと、南雲さんも南雲さんですよ。午後からの講義に出ないって何ですか。僕たち三人揃って受講するという取り決めを……」


 タタッと駆け寄った芝浦ひな乃が、加賀谷の顔の正面に自分の顔を寄せた。その距離7センチ。


「――ひぃぃぃぃなぁぁぁぁノォォォォーー……」


 見えてしまうと加賀谷は無敵では無くなる。民衆が彼女に抱いている悪いイメージはともあれ、芝浦ひな乃の無駄のない可愛さは、オタクの加賀谷にクリティカルヒットを与えた。


 ぼ、ぼ、僕より小さくて――もの凄く可愛いぃぃ……


 意識が遠のいて椅子から落ちそうになる加賀谷の体を菅原が支えた。


「加賀谷ぁぁ! しっかりしろぉぉ!」


「ねえ、三人一緒がいいなら私達と来ればいいんじゃないの?」


 その発想は無かった菅原。「なん……だと?」というような疑問符が浮かぶ。


「ナグさんの知り合だったら、ロビーの待合所までなら入らせてもらえるんじゃないかなぁ」


「ほ、本当ですかヒナ様!」と、加賀谷復活。


「落ち着けよ加賀谷、俺達はただそこで待ちぼうけを食うだけなんだぞ」


「何言っているんですか菅原さん。ミャウパー・ミュージックの本社ビルですよ? 様々な収録スタジオが沢山入っているビルですよ? どれだけのアイドルが出入りすると思……」


「みなまで言うな、同士よ。さ、参りましょうかヒナ様!」


「ヒナ様はやめてくんない? キモいから」そしてニッコリと首を横に傾げて付け加える。

「ひな乃でいいよ?」


 ――ズッギューーーン!!


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