こっそりと聞かれていたなんて恥ずかしい
夜の八時を回った。
心配しなくても、ここに居る皆は、ミーティング中に届けられた幕の内弁当を食べているのでお腹は減ってはいない。
そして中野佳音からの連絡もまだ無い。
今日はもう解散するしかないな、と、月島が皆に声を掛けようとした時。
警備スタッフが駆け寄ってくる。
「月島プロデューサー、中野佳音様がお見えになっているのですが、こちらにお通しして宜しいでしょうか?」
最初に座っていた六人掛けの場所とは違い、現在座っている十人掛けの場所は喫茶ルームの一番奥で、インフォメーションカウンターからも見えない。
月島が、一番外側に座っていた菅原に声を掛ける。
「菅原君、彼女を此処までエスコートしてくれないか?」
「はい、喜んで!」
◇
「眼鏡似合ってますね。違う人かと思いました、うふふふ……」
「そ、そうですか。カノン様に言って頂けるなんて光栄です、あははは……」
仲よさそうに話をしながら、菅原が中野佳音と一緒に戻ってきた。
「月島さん、その節は色々とご迷惑をお掛けしました」
月島が立ち上がる。
「いやいや佳音ちゃん、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。それより、わざわざ来てくれたんだね。電話で良かったんだが……」
「楽譜はほぼ完成しています……それと、楽器を指定しようにも、重要な事が抜けているので直接伺いました」
腕を組む月島。
「重要な事……」
中野佳音は敢えて南雲に顔を向けなかった。
「月島さん、この時間に空いているスタジオは有りますか?」
「ああ、いつでも使えるように三階の第七スタジオは空けてあるが……」
南雲が立ち上がる。
「中野さん。僕が歌ってみればいいんですね? すぐにスタジオ行きましょう」
「南雲さん……ええ。お願いします」
南雲に視線を移した中野佳音は、激しく込み上げてくる恋慕に憂いて瞳を潤ませた。
音源データには、歌の部分はメロディーラインとして入力されていたが、歌詞をどこで切ってどこで繋ぐかは、実際に聞いてみないと分からないものだ。
中野佳音は歌詞が最大限に活かされる楽譜を起こす。それは彼女が南雲を心底愛しているからこそなせる技だ。恐らく誰にも真似は出来ない。
◇
軽井沢から戻ったあの時。
「二人だけにして欲しい」と、豊洲を退出させた高井戸美由紀。
中野佳音は高井戸美由紀に抱き付くなり泣き始めた。
高井戸美由紀も中野佳音を抱きしめると泣いた。
「あたし、彼が好きで堪らないんです」
「私も同じよ。彼が大好き」
「なんでこんなに苦しいのでしょうか……」
「苦しいのはアナタだけじゃないのよ……」
「彼を一人占め出来ませんでした……」
「私も一人占めにしたいと思っていたわ……けどね、今は違うの」
「……どういう事でしょうか?」
「私ね、いつか彼の恋人を演じる事にしたのよ」
「それは、いつか彼を一人占めするという事ではないのですか?」
「一人占めじゃないわよ? だって、演じるんだから。勿論、そこにはアナタが登場したっていいのよ?」
「……あたし、役者では無いです。演じるなんて出来ません」
「ううん……アナタは既にピアニストを演じてるじゃないの」
彼に愛されたいというストーリーのクランクイン。
それは高井戸美由紀と中野佳音の、彼への想いの共有である。
一頻り泣いた中野佳音は決心する。
あたしは彼のピアニスト。彼の作った曲だけを弾くの。
◇ ◇
第七スタジオへと移った一同。
南雲と中野佳音、それと音響担当以外は特にする事は無い。
ミュージックシーケンサーからスピーカーを通してデータ音源を流し、それに合わせて南雲がマイクの前で歌うだけだからだ。
南雲は既に歌詞を丸暗記していて、一つのミスも無く歌い上げた。
やはり南雲は歌が上手くて声も良い。これだけ可愛らしい歌詞なのに、心の奥底にまで歌声が響いてくる。
「有り難うございます。お疲れ様でした南雲さん」
楽譜にメモを取っていた中野佳音が月島へと顔を向ける。
「エレキギター、ベース、ピアノ、ドラム、それと、シンセサイザーの機能を備えたキーボードが必要ですね」
「ふうむ、キーボード……」
「ええ、ピッコロのような管楽器でも良いかと思っていたのですが、音域を自由に変えられるシンセサイザー機能の付いたキーボードの方が、小刻みに音が出せますので、この曲には適していると判断しました」
成る程、と頷く月島。
「ところで佳音ちゃん。ピアノとシンセサイザーは併用できるかい?」
「出来ない事もありませんが、それでは曲全体の完成度は下がります」
「分かった。ではキーボード奏者を手配するとし……」
「あの、月島さん。キーボード奏者なら心当たりがあるのですが」
「それは助かる。是非紹介してくれないか?」
中野佳音が月島に微笑む。
「もう、来ていますよ」
「え、何処だ?」
キョロキョロと周囲を見回す月島。
すると中野佳音が菅原の腕を引く。
「こちらの菅原さんです」
全員が「えっ⁉」と、声を上げた。勿論だが、菅原本人もだ。
「彼、片手でのメロディーラインだけなら、結構ピアノ上手いんですよ」
冷や汗をかいている様子の菅原が、伊達眼鏡をクイッと上げた。
「あ、あ、あの……カノン様、もしかしてアレを聞いてたんですか?」
「上手でしたよ、あの童謡メドレー」
「ぎゃあぁっ、ハズカシーー!!」
◇
当然だが、ベースを加賀谷、キーボードを菅原にするとなると、練習期間を含めた調整期間を設ける必要が有る。
そして月島は、それくらいが芝浦ひな乃にも丁度良いと判断した。
そう……いきなりプロ奏者を揃えたとしても、芝浦ひな乃がこの曲を歌いこなせるかと言えば、今のままでは難しいだろうと判断したのだ。
確かに素晴しい曲だ。芝浦ひな乃のイメージアップには、これ以上の曲は無いだろう。
だが、曲だけ良くても駄目なんだ。中身が伴わなければ駄目なんだ。
芝浦ひな乃本人の意識を変えない限り、同じ轍を踏むだろう。
「神田。ドラマーの秋津と連絡は取れるか?」
「はい月島さん。あの人結構暇してますし、南雲さんと組んでる月島さんの誘いなら断らないと思います」
中野佳音も含め、神田と秋津の三名は、駒沢という音楽プロデューサーが手掛けようとしていた、新バンドのメンバーには加わらなかったのだ。
折角の敏腕プロデューサー『駒沢』の誘いを断った理由は言うまでも無い。
『南雲と組みたい』
ただ、それだけだ。
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