想いはきっと届くんだ
話を少しだけ戻そう。
浅川結有は二月十五日の朝に、宿泊していた女性スタッフの部屋から月島に連絡を入れた。
久し振りにぐっすりと眠れた浅川結有は、シンガーにならないかという月島の提案を、受け入れる決心を固めたのだ。
ところが、彼女の返事を聞いた月島の対応は、浅川結有が想像していた以上に早かった。いや、想像すら出来なかったというのが正解だろうか。
編入手続きなども含めた転校手続きには、普通だと少なくとも二~三週間を要するが、月島が所属するミャウパー・ミュージックのお抱え弁護士事務所はかなり優秀だった。
その日のうちに転校の申請を行い、双高での仮手続きを済ませると、転校先となる高校の入寮手続きも済ませ、更にその翌日には、浅川結有の祖父母が入居するケアハウスまで手配した。
それと、忘れてはならない事がもう一つ。
この優秀な弁護士事務所は月島から連絡を受けた数時間後には、例の債権回収業者とも接触し『浅川結有及びその血縁者に近付かない事を約束します』といった内容の誓約書まで書かせている。
月島が「出来るだけ早急に頼む」と、念を押してきた事もあるが、弁護士事務所も総力を挙げて彼の熱意に応えたのだ。
浅川結有は再び転校はするものの、何も心配する事無く高校へ通えるようになった。
その高校は単位制で、芸能人などの有名人が多く通っている事で有名な高校だ。
彼女はその高校に通いながら『ソロアイドル・阿佐ヶ谷ゆうみ』としての活動を始める事になる。
感謝してもしきれない内容だったが、月島はかなりのジェントルマンで、彼女が気を遣わなくても済むように接していた。
勿論だが、休校日には予約をしていたバイトにも行かせてくれた。
◇
――そして自分が作ったチョコレートと告白カードを浅川結有は見付けたのだ。
南雲先輩は中身を読んでいない。私はフラれた訳じゃ無い……と。眼鏡を外すと作業用手袋で涙を拭った。
手のひらに収まるほどの小さな箱。
浅川結有と並んで座り、引き出しの中を覗き込んでいた祐子は、甘い香りの正体はこれだったのだと理解した。
バレンタインデーから一ヶ月以上過ぎている。
あの子の事だから、誰かに貰ったのはいいけれど、勿体なくて食べられなかったのかしら。
「おや、このカードは……」
祐子が引き出しの中に手を入れて、カードを取ろうとしたが、浅川結有がそのカードをつかんで離さなかった。
「わ、私……南雲さんの後輩なんです……こ、このカードは……」
ハンカチを取り出した祐子は、こぼれ落ちようとする浅川結有の涙を拭いた。
――祐子は一瞬で全てを理解した。
この頭の回転の速さはしっかりと孫に受け継がれている。
……あれは何年前のバレンタインデーだったかしら……あの時は大変だったわね……
◇
南雲が中学二年のバレンタインデー。クラスの誰かが悪戯で、南雲の机に板チョコを入れていた。
板チョコには小さな封筒がセロハンテープで貼り付けてあった。
『今日の放課後、第二校舎の裏で待ってます。好きです』
それこそタチの悪いイタズラだ。だが南雲は放課後に校舎裏へ行った。
勿論誰も居ない。誰も来ない。
その翌日の朝。
朝寝坊気味の南雲が始業チャイム三分前に登校してくると、教室の黒板にカラープリントが貼られていた。
それは校舎裏にやって来た南雲の姿を写した拡大プリントだった。
『校舎裏にラスボス出現!』と、油性マジックで書かれている。
泣きたいのを必死に堪える南雲の肩が震える。
そこで誰かが「クスクス」と笑った。
――南雲咆哮す。
地の底から湧き上がってくるような咆哮が、教室中に響き渡った。
余りの迫力に、その場に居たクラスメイト全員が、心の底から震え上がった。
間もなくクラスメイト達は大パニックに陥る。
ある者は転びながら、ある者は押しのけながら、ある者は踏みつけながら……底知れぬ恐怖にクラスメイト達は「ぎゃあぎゃあ」と悲鳴を上げ、取るものも取りあえず教室の出入り口に殺到し、我先にと室外へと逃れていった。
……始業チャイムが鳴っても、誰も戻って来なかった。
南雲は叫んだだけで暴力を一切振るってはいないが、その日を境にクラスメイト達は登校を拒否するようになった。
前代未聞の出来事に、学校側も頭を悩ませた。そもそもの原因は誰かの悪質な悪戯だ。南雲という生徒には何の罪もない。
教師達はそれぞれ生徒を説得し、一週間後にはほとんどの生徒達は登校するようになったが、イタズラの犯人グループだと思われる生徒数名は登校せず、結局何処かの中学校へ転校をしたらしい。
◇
あの子の事だから、また悪戯だと思ったのね。箱を見る限り手作りのようだけれど、こんなに素敵なお嬢さんに想われていたなんて……
「誰かに頂いたチョコレートのようね。でも……もしも生クリームを使っているのなら痛んでいるでしょうし……処分はあなたにお願いしてもいいかしら?」
「……は、はいっ!」
祐子は浅川結有の耳元に口を寄せた。
「直接伝えた方が、想いって届くものなのよ……応援しているわ」
紅潮してくるのを感じた浅川結有は、慌てるように眼鏡を掛けた。
◇
――その日の夜。
浅川結有は詩を書いた。南雲への想いを込めた詩を。
何かを認めて貰いたかったのだろうか……
彼女は翌日、その詩を月島に見せた。
「驚いたな……これは凄い才能だよ。早速この詩で曲を作って貰うから、君が歌ってみないか?」
◇ ☆
その詩のタイトル『想いはきっと届くんだ』は、阿佐ヶ谷ゆうみのデビュー曲となり、彼女はどこまでも遙か遠く、どこまでも遙か高く――
――飛び立ってゆく。
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