第24話 鎮火

 白い頬を紅潮させた皐が、消火器を抱え走って来る。

「拓郎さんはいなかったのか?」

「うん。優子さんは春ちゃんのおっぱいだったから」

 使用したことは無いが仕方がない、俺は黄色のピンを外し、無我夢中で消火剤を噴射した。

「わああ……」

 皐は舞い上がる白い粉に驚いて尻餅をついた。

「丘さん!」

 遅れて優子がホースと高圧洗浄機を台車で運んで来た。彼女は手際よく手水舎の蛇口にホースをつなぎ、高圧洗浄機の先端ノズルを炎に向けて噴射した。俺は消火器の薬剤が無くなると交代して、二人を道具屋へ帰した。


 炎がくすぶり消えた頃、優子が戻って来た。

「これをどうぞ。主人の物ですが」

 彼女はカーキ色のシャツを差し出した。

「寒くない、大丈夫ですよ」

 包装された、おそらく新品の作業ブランドのシャツに遠慮すると、

「でも私が目のやり場に困りますわ」

と優子は目を細めて笑った。

「すみません。犯人を取り逃がしました」

「ううん、ボヤで済んで良かったわ」

「春ちゃんは大丈夫ですか?」

「皐ちゃんが側に。彼女が絵本を読むと、春は嬉しそうに笑うんですよ」

 皐は話し方こそムトウのようだが、文字を読むのは上手かった。小屋に本棚は無かったが、彼女が多くの書物に触れて育った事は容易に推測出来た。


 ホースを外すと、蛇口は狼の顔型をしていた。そういえばここは狼兎神社だったな、と思い出す。

「犯人は黒ずくめの若い男で、やくざ者のようでした」

「そう……。いずれにしても、もう川へ降りたでしょうね」

 小川へ降りるには六尺程の高さがあるが、境目にはロープが張ってあるのみで降りた先の土手も広い。いざ飛び降りてしまえば小川は浅く、道路側のガードレールもよじ登れない事はなかった。

「川は堀のように森を囲んでいますよね?」

 前々から気になっていた。森をぐるりと囲う小川は北から流れていて、森の手前で二分して南側で合流しているが、森に沿って不自然にくねりながら流れている。

「ええ。実は西側は人工物、まさにお堀です」

「そうなんですか?」

「兎家の先祖と村の人々が、この森を侵入者から守る為に掘ったと聞いています。昔は水量が多く、土手部分は無かったのだとか」



 突然、森の奥から男の叫び声が聞こえた。

「……犯人がまだいるのかしら?」

「俺、様子を見てきます。優子さんは道具屋に戻って鍵を。皐をお願いします」

「待って! これを」

 彼女はエプロンの大きなポケットから、玩具の銃ような物とアウトドア用のヘッドライトを取り出した。

「これは?」

「護身用の麻酔銃です。短銃ですがちゃんと注射針が飛ぶわ」

 彼女はにっこりと微笑んだ。

「え?」

「ただ効き目が出るのに数分かかります。どうか、お気を付けて」

 額にヘッドライトを装着して銃を受けとると、また男の悲鳴が上がった。俺は声の方角へ駆け出した。



「ひぃぃぃ」

 目の前の若い男は尻餅をついていた。太腿に真っ赤な血が滲んでいるが、男の周囲には誰もいない。

「止血するから、逃げるなよ。何があった?」

 俺はシャツの袖を歯で引き裂いて、男の太腿に巻き付けた。男は怯えた様子で、答えようとしない。


 バサっと大きな音がして、突然目の前に翼を持つ黒い狼が降り立った。生暖かい風が吹いて、その風圧で俺はよろめいた。

「ひぃぃぃぃ」

 獣はグルル……とうなり声をあげると、俺を一瞥してから翼を閉じた。

《お主は、何者だ》

 低く太い声が、白い狼の時のように脳に響いた。

「この森に住む居候だ」

 咄嗟に居候という言葉が口をついて出て苦笑する。獣は今度はガガ……と唸った。


「お前は、魔物か?」

 ヘッドライトの光に琥珀色の瞳が反射する。

《罪人は、罰せねばならぬ》

 魔物は向きを変えると、放火男に襲いかかろうとした。

「やめろ!」

 俺は麻酔銃を魔物に向けた。









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