第1話 皐
けたたましい目覚まし時計の音で目が覚める。俺は布団からにゅうっと左手を伸ばしてベルを止めた。
「起きろよ、平次」
柔らかな足裏に左頬を踏まれ、俺の右頬は敷布団にのめり込んだ。よろめいて起き上がり、仕返しに彼女を後ろから抱き締め、頬髭を擦り付ける。
「口が臭いよ」
みぞおちに肘を突き立てて俺の腕から脱出した彼女は、レタスとトマトを手際よく皿に盛りつける。
こんがり焼けたパンに一塊ずつバターを乗せると、彼女は溶けたバターをべったりと小指につけて美味そうに舐めた。その艶やかな唇にそそられ、正面から顔を寄せる。
「てめぇ、歯を磨いてからにしろよ」
今度は弁慶の泣き所にローキックをくらい、すごすごと洗面所へ向かう。歯磨き粉で口を泡だらけにして、髭剃りをあてる。
「随分と渋みが増したな」
鏡にうつる自身に苦笑する。四十肩を患ったこの二年で、もう自分は若くはないのだと気づいた。
こぽこぽと良い音をたてて珈琲が入ると、漂う香りに今朝も幸福感を感じる。
「皐」
俺は狭い台所へ行くと、彼女、ムトウ皐の隣に並んだ。
「何だ?」
「お前、やっぱり森へ帰るのか?」
「うん、次の満月には帰る。平次も自宅に戻るのか」
後れ毛のかかる横顔に焦燥感のようなものを感じながら、皐の肩に手を回す。
「いや、ついていくさ」
三度目は返り打ちにはあわず、彼女の唇が俺の疼きに応えてくれる。
「森の冬は厳しいぜ。平次の嫌いな虫もいる」
俺が唾液で汚した唇を右腕で拭いながら、銀髪の娘は悪戯に笑う。
「お前が居なくなるよりはマシだよ」
真摯な眼差しを向けると、白い頬を薄く染めて彼女がはにかむ。
恋人のナツミを捜し歩いて数ヶ月、諦めかけた頃皐に出会った。その夜俺は随分とやつれて見えたらしい。彼女はナツミを知らなかったが、錆びた階段を上った六畳の部屋に俺を招くと、コンビニの酒を振る舞った。
興味本位か慈悲の心か、とにかく彼女は俺の苦労話を明け方まで聞き、金を要求しなかった。その代わりに滑りの悪い襖をガタゴト言わせて、肌掛け布団を出してきた。
「元気になるまで休んでいきな」
埃っぽい布団にくるまると、愚痴を吐き出した安堵からか涙腺が緩んだ。俺は畳の上で子供のように丸まって眠った。
こうして俺は皐に拾われた。体調はすぐに回復したが発つ気にならず、ずるずると泊まり込んでいる。
皐は以前は森で暮らしていたと言った。家族は無く、『ダディ』と呼んでいた父親代わりの男がいたが、女が出来て街へ下りたらしい。彼女も後を追うようにしてここへ来たが、街の空気が肌に合わず、近々森へ帰るつもりだと言う。
言葉使いは粗雑だか、彼女の生活はきちんとしていた。昼間は貸し本屋で働いた後、犬の散歩代行のアルバイトもしている。夜は街をふらつくこともあるが、人様に迷惑をかけたりはしない。
「ナツミを捜さなくていいのか?」
彼女は週末になると、ナツミの名を口にした。
「ああ。きっと何処かで幸せにしているさ」
ここで暮らすうち、俺はあんなに捜していたナツミを忘れかけていた。皐と俺は寂しい点で利害が一致していた。俺がどれほどの存在かは推し量れないが、少なくともナツミを失った穴は皐が埋めてくれていた。
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