第2話 欠けた記憶
俺は居候するには充分な金を皐に渡した。
「平次、記憶は戻ったか?」
彼女は律儀に『家賃』と但し書きした紙切れをよこした。
「いや。森で暮らせば思い出せそうな気がするよ」
俺にはナツミが失踪した頃の二週間分の記憶が欠落していた。今思えばその記憶を取り戻そうとして、必死に彼女を捜していたのかもしれない。記憶障害は外傷的要因に限らず、精神的ストレスを受けた場合にも起こり得るらしい。主治医は「働きすぎが原因かもしれない」と療養を命じた。
貸本屋に出勤する皐を見送ると、タイミング良くスマホが鳴った。液晶画面に『秘書 篠塚』と名前が表示される。
『おはようございます、社長』
「おはよう」
仕事のスケジュールはメールで把握しているが、彼がギリギリまで調整し、変更がある場合には連絡がある。
『本日、正午にA社会長との昼食会があります。他は全てキャンセル済です。一時間前にお迎えに上がります』
篠塚はいつも通りの早口で業務連絡した。
「承知した」
『それと、皐様に関する調査ですが、父親代わりだった『ムトウ』という男に接触出来ました』
「……それで、彼の子供の可能性は?」
皐は自身の姓を知らず、外では『ムトウ』を名乗っている。
「それが……森で拾った子供のようで、詳しい身元は彼も知りませんでした。年齢不詳で学歴も無く、彼が本など買い与えて育てたようです」
「そうか、ありがとう」
では彼女は何者だろうか? 稀有な髪色、肌は透き通るように白く、異人の血が混ざっている事は明白である。
『随分と胡散臭い男でしたよ。社長、本当に兎神の森に転居されるのですか?』
「ああ。街からさほど遠くないし、療養にはうってつけだろう?」
『今後の仕事はどのように?』
「今まで通りだ。これからは森の入り口まで迎えを頼むよ」
通話を終えると街へ買い出しに出た。決めたからには楽しもうと、少々浮わつきながらトレッキングシューズ、大容量モバイルバッテリーなんかを見て回る。
街の喧騒の苦手な皐が、森で育った事は確かだろう。耳栓を買ってやると彼女は、完全に音が遮断される事を嫌がった。森では命の危険にかかわるのだと言う。
「森へ行けば、ナツミに会えなくなるぞ」
月明かりに俺を見る皐は、どこか怯えているように感じられた。
「良いんだ。後悔しない」
添い寝してやると、頭皮から石鹸の良い香りがする。
「平次はあたいと寝ないのか? あたいは構わないよ」
俺は驚いて、透き通るような髪を撫でた。
「お前が完全に大人になるまで待つさ」
「もう大人だよ。初潮から十年数えたんだ。ダディは大人だと認めてくれたよ」
「そうか……考えておくよ」
皐は安心した表情を見せると、ゆっくりと目を閉じた。子守唄の代わりに昔流行ったプレスリーの歌を聴かせると、すぐに寝息が聞こえる。
俺は臆病者だった。皐と関係を持って、彼女がナツミのように忽然と消えてしまう事が怖かった。男勝りな皐が夜になると子犬に似た眼差しを向けるのもまた、ダディのように俺が去るのを予感しているのかも知れなかった。
「皐、もう寝たのか?」
「ポチ……おすわりぃ」
散歩の夢でも見ているのか。無邪気な寝顔を見ながら俺は、愛の歌を歌い続けた。
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