第18話 皐の両親
翌日は道具屋の手伝いに専念して、診療所を訪れたのは夕方だった。出産を知らせると皐は目を輝かせた。
「名前は何て言うんだ?」
「春と名付けたそうだ。彼女の亡くなったお母さんの名前から貰ったそうだよ」
そう教えると皐は、春ちゃんに早く会いたいなあ。ダディ、あたいはいつまでここにいないといけないんだ、と廊下の向こうの診療室に向かって叫んだ。
「ムトウ、話がある」
俺は彼を呼び止めて庭へ出た。
「単刀直入に聞く。皐の本当の名は?」
彼は右の口角をあげて答えた。
「何だ、そりゃ。どこで仕入れたネタだ?」
「皐の父親の名前と密猟の事実も掴んでいる。考えたらお前のようなワルが子供を拾って育てた事自体おかしい。何か知っているんだろう?」
ムトウはフッと笑うと池の縁にしゃがみ込んだ。
「ナツミは本気でお前に惚れていたんだぜ」
「急に何だ?」
彼の話す意図が分からず、つられて池をのぞくと足元に鯉が泳いでくる。
「もし俺が務所暮らしするなら、お前は皐とナツミのどちらを選ぶ?」
「ナツミは俺の元を去った。あんたも俺の女だと豪語していたじゃないか」
「お前を嫌いになったというのは嘘で、窮地に立たされた俺に同情しただけだとしたら?」
みどり園のベンチで三時間待ったと言ったナツミの嘘話が蘇る。
「もしそうでも、皐を選ぶさ」
あの透き通るような銀髪と白い肌の虜になったのはいつ頃からだろう。俺のようなオジサンが彼女に想いを寄せるのは罪だろうか。
「ふうん……いいぜ。教えてやる」
ムトウは縁側の下から棒麩をとりだしてちぎると、池に投げた。鯉が貪欲に口を開く姿が自分に似ている気がして、妙な気分がした。
「本当の名前は、ニーナ・ミハイルヴナ・ポポワ。皐って名は俺が適当につけた。あの家族は若葉組に追われていたから、隠す必要があった。もっとも彼女自身はニーナって名を忘れているがな」
「若葉組?」
「当時ここいらで荒稼ぎしていた連中さ。その様子じゃあんた、俺の事も調べたんだろう?」
「和泉一家に恩がある事位しか知らん。彼女の両親は何をやらかしたんだ?」
鯉は更に餌を要求しているのか、顔を出してぱくぱくと口を開く。
「両親は違法取引の実態を記者にリークした。損害が相当な額だったらしく、若葉組は躍起になって彼らを探していた。それで両親は和泉一家に子供を預けに来た」
「敵対組織だろ?」
「蛇の道は蛇ってな。切羽詰まっていたんだろうな。夫婦は子供を預けると、出頭すると言っていたそうだ」
「実際は警察に行かなかったのか?」
「その日のうちに消息を絶った。川に捨てられて土左衛門になったのかもな」
ムトウは立ち上がると、残りの麩を握りしめた。粉々に砕かれた麩が水面に散って、集まった鯉が押し合うとあぶくが立った。
「皐が狙われる理由は?」
「当時500万の値がついたメジロが行方不明になった。奴らは娘が鳥の呼び方を知ってると考えた」
「両親が逃がしていたのか」
高値で売れるという話は篠塚の情報と一致する。
「だが彼女は両親と別れたショックで母国語を忘れていた。カタコトの日本語以外話せなかったんだ」
「それなら、何故森に住んだ?」
「皐が戻りたがって脱走した。発見した時あの子は、本当に熊に寄り添って眠っていた。それで俺は彼女に生きていく為の知識を与えた。小屋の存在は若葉組に知られていなかったから、灯台下暗しってやつだな。お尋ね者同士が隠れ住むにはちょうど良かった」
「あんたは何故森を離れた?」
突然皐の前から消えたのはどうしてなのか。
「メジロの寿命は長く見積もったとしても10年。皐が狙われることはもうないだろう。そうなれば、お尋ね者の俺は離れるべきだ」
別れは苦手でな、とムトウは笑った。
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