第22話 追憶
始めは描く相手の声が聴こえたけだった、と皐は言った。ところがそのうち色鉛筆を持たなくても、意識すれば声が聴こえるようになった。そこで彼女は冬眠から目覚めたテディを方々捜し回った。
だが、母熊の声を聴く事はできなかった。
「なぜ俺に言わなかった?」
「だって、記憶を取り戻したんだろ?」
「なぜそれを……」
「篠崎から聞いた。だからちゃんと送り出すつもりでいた」
皐はまだ鎮静剤が抜けていないのか、ふらりと俺の肩に寄りかかった。
「それで、つれなくしたのか?」
「平次は森にいてはいけない人だ」
彼女は俺から離れると、『鯉の餌』と書かれた木箱から棒麩を取り出して齧りついた。
「それ、人間が食べいいのか?」
「いいに決まってるよ!」
皐が麩を投げ込むと、さっき鯉がいた辺りに波紋が見える。怒っているのか泣いているのか、その背中が震えている。
「皐、大人になったな」
声がして振り向くと、ムトウが縁側の柱にもたれかかっていた。
「ダディ……」
「両親はお前を捨てたんじゃない。お前の本当の名はニーナだ」
ムトウは彼女の秘密を漏らした。
「ニーナ?」
「そうだ、居候が思い出したように、お前も全て思い出せ。今のお前なら平気だ」
ムトウはそう言うと、車を回してくると言って廊下を戻った。
「ニーナ?」
皐は俺を見た。
「ああ」
「ニーナ?」
俺はもう一度頷いた。
「ニ……ナ」
皐は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「皐?」
「うぁぁ……」
彼女は両手で顔を覆ったまま、俺の問いかけに首を振り続けた。
ムトウが助手席のドアを開けると、皐は顔を背けたまま乗り込んだ。彼の車は馴染みのあるクーパーだった。
「あいつ、まだこれに乗ってたのか」
それは五年前のナツミの誕生日に贈った車で、ミントの好きな彼女に準えて安易にアイスブルー色に決めて、小言を言われた代物であった。
皐はずっと窓の外を見ていた。道具屋に到着するとムトウは俺のところへ来て、「皐を任せるぜ」と耳打ちして引き返して行った。
道具屋の店内に人影は無く、どこから入り込んだのかカウンターの椅子に薄茶色の兎が眠っていた。
「かわいい」
皐は兎を抱き上げると「温かいや」と言って頬を擦りよせた。彼女は椅子に腰かけて、太腿の上に兎を寝かせた。兎はよほど眠いのか、無防備に丸まっている。
「皐、俺を頼れよ」
彼女に触れようとしたが躊躇して、代わりに兎の胴を撫でた。
「……思い出したんだ」
「ニーナって名前をか?」
彼女はうつむいたまま頷いた。
「それからパパとママの顔と、子熊が死んだ日のことも」
皐はゆっくりと話し始めた。
「あの日……熊の親子が鳥カゴにいたずらしたんだ。パパは追い払おうと斧を振り回した。そしたら子熊が地面に転がって動かなくなった。怒ったテディがパパに襲いかかって……鼻をやられたテディは、子熊の首をくわえて逃げていった」
「そうか」
「次の日パパは早朝から森に出て、昼頃子熊を抱えて戻った。触るともう冷たかったよ。それで穴を掘って埋めたんだ」
皐は顔を上げると、濡れた瞳で俺に微笑んだ。
「それなのにあたいが一人で逃げた時に、テディは助けてくれたんだ。くっついて眠ると、この兎みたいに温かかったよ」
拓郎が戻ったので、俺は朝の礼を言った。拓郎は笑ってカウンターの皐に声をかけた。
「皐ちゃん、もう大丈夫かい?」
「拓郎さん見て、兎だ!」
皐が薄茶色の兎を見せると、拓郎は血相を変えて駆け寄った。
「こ、この子は預り物でね。ゲージに戻してくるよ」
彼は兎を抱くと、そそくさと二階へ消えた。
「拓郎さん、一体どうしたんだ?」
俺の呟きに、皐は天井を見上げて言った。
「あの子は……優子さんだったよ」
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