第21話 タイムリミット

 森に春が訪れ、土筆の子が顔を出した。道具屋の春は食欲旺盛で母乳が足りず、優子はミルク作りに勤しんだ。

 療養の甲斐あって、俺は記憶の殆どを取り戻していた。皐は写生するうちに生き物の気持ちが分かるようになったと喜んで、益々森の探索にのめり込んだ。

 あれから白い狼には会っていない。その後の満月は悪天候が続き、外出さえも出来なかった。


「皐、みどり園に行かないか?」

「でぇとか? 行きたくない」

 最近皐は目に見えて俺を避けるようになっていた。

「お前の描いた子熊がいるぜ。ショーに出ているよ」

 最終選考では皐の描いた子熊がメインキャラクターに決定し、他2作品はリーフレットやホームページなどの二次元で活躍するキャラクターとして採用された。子熊の着ぐるみ製作を急ピッチで終わらせ、春のスペシャルイベントと銘打って園を訪れた客から名前を募集している。

 皐は頑固に誘いを断った。それどころか肘打ちや脛蹴りにあうことも無くなった。



「恋が冷めたのね。彼女まだ若いんだし、そろそろ手放してあげたら?」

 開店前のアンダルシアに顔を出すと、ナツミは赤いマニキュアを塗りながら言った。

「……俺な、お前にヨリを戻したいと言ったこと思い出したよ」

「あら、今さら?」

 彼女は全ての爪を塗り終えると、俺の隣に座った。有機溶剤の匂いが鼻につく。

「あの日、本当はみどり園で待ってたんだろ?」

「……ええ」

「ムトウを救うために俺と別れた?」


 奥でフラメンコギターの調律音がしている。

「彼はある事件の容疑者を治療して逃がした罪で、警察に追われていた。あの人を匿う事で、貴方を巻き込む訳にはいかなかったの」

「そうか」

「でもやっぱり揺れたわ。結局貴方は来なかったけれど」

 その時俺には記憶が無かった。

「全てを知った今なら?」

「もう時効よ。例え婚姻届が出ていなくても、私はムトウナツミよ」

 彼女は入籍していないことを知っていた。

 俺は療養中に貯まった仕事を精力的にこなし、日付が変わってから自宅のベッドに倒れ込む日々が続いた。カーテンの隙間から漏れる月光を見ながら、皐の為にも潮時なのかと考えていた。

 


 翌日ナツミから連絡があった。

「皐ちゃんが来てるの。仕事帰りに寄って」

 心臓が押し潰されそうになって、仕事を放り出して診療所の扉を叩いた。

「あら、早かったじゃない」

「容体は?!」

「肩が痛むみたいで、兎さんが連れてきてくれたの。でも傷は塞がっているし、問題ないわ」

 ナツミはポケットから、瓢箪型のナスカンを取り出した。

「これは?」

「握りしめていたの。お店の商品を持ってきてしまったみたいだから、後で返してきてあげて」


「居候、記憶が戻ったらしいな」

 ムトウはにやりと笑いながら、温かい珈琲の缶を差し出した。

「大体な」

「皐は鎮静剤で眠っているから少し待て」 

「鎮静剤?」

「興奮していたからな。あいつ、いつから動物の気持ちが分かるようになったんだ?」

「え?」

「テレパシーみたいなもんかな。感じるんだとよ。知らなかったのか?」

「いや……それが痛みと関係あるのか?」

 俺はポケットのナスカンを握りしめた。

「さあな。あの小屋に帰るつもりがあるなら本人に聞いてみな」


 

 縁側から庭へ出ると、足元に鯉が寄ってくる。親子だろうか、前に来た時には見なかった小さな鯉が交じっている。

「もしかして皐は、母熊の声を聞いたのか……?」

 それを一人で抱え込んで、悩んでいるのかも知れない。


「違うよ、母熊の声だけが聞こえない。テディがどこにもいないんだ」

 振り返ると透き通るような銀髪が、夕日に煌めいていた。








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