第8話 断片的な記憶
『私、他に好きな人が出来たの。会うのは最後にしましょう』
はだけたバスローブを直しながら彼女が告げた。突然の別れの言葉に頭が真っ白になった。
落ち着こうと煙草を取り出すが、ライターが見つからない。枕元のマッチを何年かぶりに擦ってみたが、湿気っているようである。
『彼と暮らす前に、過去は精算しておきたいの』
清楚なナツミが二股……? 俺との関係を過去と言うのなら、さっきまでその腕に抱かれていたのは一体誰だ?
「その男はお前を幸せにしてくれるのか?」
『私が彼を幸せにするのよ。貴方は一人でも生きていけるけれど、彼は私がいないとダメなの』
――蘇った記憶は、そこで途切れていた。
「俺はナツミに振られていたのか……」
ナツミとは五年間付き合ったが、見目麗しい女性だった。しとやかで優しく、看護師の資格を持っていた。
勤めていた町医者が廃業して仕事を無くしてからは結婚を望んだが、俺は仕事人間で身を固める気は無かった。仕事が立て込むと連絡もせず、篠塚に花を贈らせて事を済ませていた。指輪を買ってやるどころか彼女の指のサイズに興味すらなく、愛想を尽かされて当然だった。
決別した女を馬鹿みたいに捜していたことに、笑いが込み上げてくる。
「はは……」
何故か笑いながら涙が出た。皐を起こすまいと外へ出て、自虐的に頭を木にぶつけると、記憶の続きがフラッシュバックした。
「そいつは信用出来るのか? 職業は?」
『今は裏の世界で生きている人よ。貴方よりもずっと可哀そうで私を必要としているの』
「裏の世界? どんなやつだ、名前は」
ナツミは優しい女だ、母性をくすぐられでもして騙されているのではないだろうか。
『ムトウよ。また篠塚にでも調べさせるつもり?』
「いや……」
『私、あなたのそういうところが嫌いよ。人格者で優しくて、いつも余裕がある素振り。でも彼に興味なんか持たないで、私の事は諦めてね』
いたたまれなくなりナツミを残して部屋を出た。コンビニでライターを購入して駐車場で煙草に火をつけると、通りすがりの酔っぱらいが俺の足下に唾を吐き捨てた。俺はそいつに殴りかかり、カウンターをくらって地面に転がった。
―――そうだ、確かに彼女はムトウと言った。
「偶然か……?」
額がズキズキと痛んで、視界がぐにゃりと歪んだ。俺は気を失うまいと、その場に座り込んだ。
*
とにかくナツミの男を確かめる必要性を感じて、俺はムトウの隠れ家を探し始めた。篠塚に探偵を雇わせたが、有力な手がかりは得られなかった。
困り果てた俺は次の満月、狼を待ち伏せる事にした。師走ともなると夜は冷え込み、ベンチコートにカイロを携えて待ち伏せると、直にゆっくりと白い狼が歩いてきた。
狼は俺を一瞥すると、目の前を通り過ぎようとした。
「待ってくれ。教えてほしいことが」
『何だ、居候』
前回同様、狼の声が脳に響く。
「お前はムトウの匂いを辿ることがでるのか?」
琥珀色の瞳に見つめられると、体が強張った。
『出来るが、私は森から出られない。あの男に何用だ?』
「事情があって、 彼に接触したい」
狼の長い舌から涎が垂れた。狼は太い尾で俺の身体を叩くと、神社の方角を向いた。
『道具屋に聞いてみるんだな』
「兎さんに?」
『彼は狼兎神社の宮司であり、この森に精通している。あの男についても何か知っているであろう』
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