第28話 森の神
ムトウに送ってもらい道具屋に戻ったのは、深夜一時半頃だった。裏口から入ると一階の店舗にまだ拓郎が起きていて、皐は春の部屋で就寝したと言う。ひと安心して礼を言うと彼は、
「こちらこそ、事情は聞きました。消火に感謝します。傷は大丈夫ですか?」
と全て周知の様子で話した。
「かすり傷です。遅くなりすみません、もうお休みになってください」
そう言って裏口のサムターンを回すと、
「優子が神社にいるので、その、鍵は開けておいてください」
と拓郎は口ごもった。
「一人で行かせたんですか?! 危険です」
「なに大丈夫、魔物は眠りましたよ」
彼は平然と答えた。
「大丈夫なわけないでしょう?! ちょっと俺見てきます」
拓郎の制止を振り切って道具屋を出た。正直彼の態度にイラついた。何を根拠に魔物が眠ったなどと言うのか、彼の返答はいつも曖昧で距離を感じていた。
神社に向かうと、御神木の前に優子がいて何か話している。
「私の血が必要ですか?」
彼女はひとり、千年杉に話しかけていた。
『……生け贄となり、娘に巫女を継承するか』
急に低いしゃがれ声が木霊して、俺は声をあげそうになった。
「いいえ、巫女は私で終わりにします。我々は信じて森を守って来ました。でも貴方は六百年前と少しも変わらないではありませんか」
静寂の中、優子の凛とした声が主張した。
『小癪な! お前は焼き討ちされた森を知らぬであろう? 幾年も緑が戻らず、生き残った動物も惨めに果てた。されどもまた、人間は火を放ったのだ!』
――声が轟いた瞬間、目の前に焼け落ちた半透明の森が出現した。長い黒髪の巫女と
それが六百年前の呪いの始まりの瞬間だと気づくのに数秒かかった。
「満月の晩には神主が夜回りをして、森の秩序を保つと約束します。どうか人々を助けてください」
巫女のか細い声がした。
『その非力な男がどうやって森を守るというのだ? ならば満月の晩には牙を持った狼にしてやろう』
しゃがれた笑い声がして、神主は白い狼に姿を変えた。
「森の秩序が保たれれば、人間を助けてくれますか?」
巫女は言った。
『良いだろう。だがお前は満月の度に兎になる。約束が果たされなければ魔物に喰われる事を忘れるな』
神は巫女を薄茶色の兎に変えた。
――それから焼けた森と共に狼も兎も消えて、また元の闇が広がった。
「約束を反故にしたというのなら、私を捕食させればいい」
優子は嗚咽交じりの声で続けた。
「でも主人と娘は森を去るわ。そう覚悟を決めています」
『人間の分際で我に楯突くのか!』
突風が吹き、木々がざわめいた。
「そうして森と神社が荒れたら、貴方はまた六百年前のように森に入る人間を無差別に殺すのですか?」
『小賢しいわ!』
また突風が吹いて、俺は思わず灯籠にしがみついた。あっと思った時には、優子は風で宙に飛ばされていた。
「優子さん!」
彼女を受け止めたのは、拓郎だった。
『木村殿……久しいな』
「面目ありません。全て私の責任です」
拓郎は優子を腕に抱いたまま、御神木を見上げた。
『巫女を差し出すか?』
しゃがれ声はゆっくりと話した。
「いえ。優子も春もあげませんよ。その時は御神木を伐採しますか……」
拓郎は小さく笑った。
『貴様、何を申すか!』
「冗談です。巫女はこれをお持ちしたんですよ」
そう言うと彼は気を失った優子の左手から一尺程の木製の像を差し出した。
『それは……』
「はい。戦国の世に盗まれた社の御神体です」
『ああ……まだ朽ちていなかったのか』
茶色い像は天女のような形をして、腰をくねらせ右手で頭上の壷のような物を押さえている。
「ええ。これは俗世で随分と災いをもたらしたようです。浄め柿渋で仕上げ、艶も甦りました。社に納めても宜しいですか?」
『木村殿……我はそなたをもう一度信じよう』
また風が吹いて、無尽に広がる枝がざわめいた。
「俺はもう木村ではありません。彼女と一緒になって、兎になりました」
『ほう……では兎殿、森を頼むぞ。
クックッと笑いながら、その声はやがて消えた。
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