居候はお姫様

マツモ草

プロローグ

時計を見ると約束の時間、午後七時を十分程過ぎていた。

八月の第二週、チェーン店のコーヒーショップの窓から眺める駅のコンコースには、お盆前の金曜の夕方とあって大勢の人が右に左にと忙しく歩いて行くのが目に入る。


親子で買い物だろうか?

有名デパートの紙袋をもった大学生くらいの女性と母親らしき女性の二人組が、笑顔で話しながら目の前を通り過ぎて行くのをボーっと眺めていると、テーブルの向かいに人の気配がした。


「ごめんね。待った?」


俺は私鉄の改札方向に歩いて行く母娘の後ろ姿から目を離し、声の方向に目を向ける。


「出ようとした時にちょうど本部長に捕まっちゃって。」


俺の返事を待たずに、申し訳程度に言い訳を口にしながら向かいの席に座ると、バックをゴソゴソと漁り、取り出したスマホに目を通す彼女―――大崎穂香は俺の彼女だ。

入念なメイクと髪型、気合の入った服装。

明らかに今日俺に会う為じゃない穂香の姿を一瞥して、早くこの場を去りたい俺は用件を急かすように口を開く。


「いや―――、で、今日は何?」


穂香は俺の問いに答えずに、アイスティーを一口飲むと窓の外に目を向け、ガラスの向こう側を行きかう人を眺めている。


暫くそうしていた穂香は窓から目を離すと、一旦下を向いてから覚悟を決めたように顔を上げる。

ここに着いてから俺と一切目を合わせていなかった穂香と目が合う。


「圭太、ごめんなさい。私と別れて下さい。」


静かな店内に合わせて、呟くようにそう口にした穂香は、また俺から目を逸らせて俯いた。

彼女が久しぶりに俺を呼び足した用件はたぶんそういう事だと分かっていた。

全ては一週間前のあの日に分かってしまった事だから。


だけど、予想していたとは言え、現実にその言葉を聞いて頭の中が真っ白になった俺は、予め用意していた返事を咄嗟に返せなくて、重たい沈黙が俺達の間に流れる。


―――ブー、ブー、ブー


次の瞬間、沈黙を破るようにテーブルの上の穂香のスマホが振動した。

文字までは読めないが、誰かからのメッセージが届いたことを知らせるスマホに、穂香の気が逸らされる。


「―――分かった。」


それをきっかけに沈黙から逃れた俺は、たった一言口にする。

俺達の二年半という時間もその一言で全てが終わった。


「話はそれだけ?」

「え?......あ、うん......」


たぶん色々問い詰められて、理由を聞かれ、なじられる事を覚悟していたのだろう。まさかたった一言で終わってしまうとは思っていなかったのか、驚いた顔をして見つめる穂香を残し、俺は席を立つ。


「俺の部屋にあるお前の私物、後で送っておくから。」


最後にそう言い残し、殆ど口を付けていなかったアイスコーヒーを手にすると、俺は店を後にした。



『夢』


子供の頃から俺―――吉野圭太が一番嫌いだった言葉。


大きくなったら何になりたい?

将来の夢は?


小学校低学年の頃、何の授業かは忘れたけど、先生が黒板に大きく書いたその言葉。


サッカー選手。保母さん。警察官。ケーキ屋さん。

順番に席を立って将来の夢を語るクラスメイトを見ながら、夢なんて無かった俺は罪悪感に囚われた。

「夢なんてありません。」そんな事を言える勇気もなく、結局、誰かが答えたのと同じ言葉をそのまま口にした俺に対して、先生は「吉野もサッカー選手か。頑張れよ!」と、心のこもっていない言葉を口にした。

そして全員の夢が発表された後にこう言い放った事を俺ははっきりと覚えている。


「みんな立派な夢があって偉いなー。」


夢なんて無かった俺は、立派でも偉くもなくダメな人間なんだろう。

その時から夢という言葉が嫌いになった。


―――夢に向かってがんばろう!

―――夢をあきらめるな。

―――大きな夢を持て。


それから、事あるごとに耳に入ってくる言葉。

その言葉を聞くたびに、まるで夢を持つことが当たり前、夢を持っていない人間は生きている価値がないと言われているような気がして、夢を持っていない自分は人として何か欠けているのじゃないかといった劣等感を常に抱きながら、人並みの学力とそこそこの努力で中学、高校、大学と進み、自分の身の丈に合った会社を受けて社会人になった。


社会人になって夢を見る事なんて諦めていた。

そんな、夢が嫌いだった俺が初めて見た、たった一つの小さな夢。

同期入社の穂香と出会って初めて見た夢。

人が聞けば笑ってしまうようなそんな夢。



穂香と結婚して、子供が出来て、一緒に年を取って......



穂香と別れた後、自宅アパートの最寄駅に降りた瞬間に真夏の暑さと湿気が身体に纏わりつく。


「やっぱ、夢なんて見るもんじゃねーな......」


暑さも、湿気も、夢も、すべて振り払うように一人呟いた。


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