第10話 朝焼け
ピーピーと耳障りな電子音を響かせるスマホを手探りで掴み、重い瞼を開いて時間を確認すると、ディスプレイには当然ながら設定した5時45分と表示されている。
素早くフリックして耳障りな電子音を黙らせると、窓に掛かったレースのカーテンが朝焼けを受けて真っ赤に染まっているのが目に入り、ひんやりとした室内の空気が手に纏わりついた。
もう四月になるとは言え、昨晩は大分冷え込んだようだ。
寒さのせいでベットから出るのを一瞬ためらうが、昨日の出来事を思い出した俺は思い切って起き上がると、ズボンとトレーナーに着替えて部屋を出る。
(どうか居ませんように......)
昨日の出来事が全て夢だったらどんなに良いだろうか。
そんな儚い希望を願いながら真っすぐリビングに行くと、恐る恐るドアをノックする。
「おーい、おはよう。」
声を掛けて暫く待っても返事が無いのでもう一度ノックしてから声を掛けて中の様子を伺うが、リビングの中からは一切の返事も物音もしない。
(まだ寝てるのか?)
彼女も昨日は色々あって疲れていたのかもしれない。
もう少し寝かせてやろうとも思ったが、俺にも色々とやる事がある。
リビング、と言うかキッチンが使えないと朝食も作れないので少し可哀想だけど起きて貰うしかない。
「起きてるか?入るぞ!」
いきなり切りつけられちゃあ堪らないので、ドアの影に隠れる様にして恐る恐るリビングのドアを開けて中を覗くと、俺の部屋と同じように朝焼けで真っ赤に染まったカーテンと薄暗いリビングが目に入ってきた。
エアコンの動作音が微かに聞こえるだけのシンとしたリビングを見渡すと、昨晩布団を敷いた場所に綺麗に畳まれた布団と、その上に同じく綺麗に畳まれたジャージが目に入るだけで紗江の姿は見当たらなかった。
(まさか......本当に消えた?......戻った......のか?)
一瞬喜んだが、消える人間が布団もジャージもキチンと畳んで消える事が出来るだろうか?
こっちに来た時と同じように一瞬で戻ったのであれば、布団を畳む暇もなく着ていたジャージごと消えるのが普通だろう。
まあ、トイレにでも行っているのかと思い直し、リビングに入って朝焼けに染まったカーテンを開くと、窓の向こうで真っ赤な朝日に照らされた着物姿の紗江がこちらに背を向けて庭に立っているのが目に入った。
♢
「お早う御座います。」
「おはよう。早いな。」
玄関に廻って外に出ると、俺に気付いた紗江が笑顔で挨拶してくる。
着物に着替えているのはそういう事かと思いつつ、俺も挨拶を返す。
「起きて丁度着替えが終わりました所、日の出と共に綺麗な朝焼けになったので、このように眺めておりました。」
「こんなに綺麗な朝焼けは珍しいな。今日は午後あたりから天気が崩れるかもな。」
俺は紗江の横に並び、昨日より少し強くなった風に二人で吹かれつつ、海まで続く街並みが朝焼けの下に広がる見慣れた光景を眺める。
背後を振り返ると、灰色の雲の欠片が間近に迫る山並みを次々と越えては速足で流れていく。
やはり、天気は急速に下り坂に向かっているようだった。
「昨日は暗くて良く分かりませんでしたが、こうして景色を眺めると、ここは本当に百五十六年
紗江の目に入っているのは同じような家や大きな工場が続く街並みと、煙突や橋の上部でフラッシュを焚くようにチカチカ点滅するライトの明かり。
一体この景色は彼女の目にどう映っているのだろう。
そして紗江の居た時代、ここから眺める景色はどんなだっただろう。
そんな想像をしていると、通り過ぎる風の音までがスマホや家電製品から発せられる電子音に聞こえてくるような気がしてくる。
「街並みの向こう側、銀色に光るのが相模湾。そして相模湾にちょこっと突き出している黒い部分が江ノ島だ。江ノ島の向こうが三浦半島でその向こうに薄っすらと見える陸地が房総半島だ。」
「あれが......江ノ島弁財天で御座いますか。私は御府内より外に出た事がありませぬ故、江ノ島弁財天もこのような素晴らしい景色も初めて目にいたしました。圭太殿、それではあの山は?」
紗江は顔を西に向けるとラクダのコブのような山を指さした。
「あれは箱根の二子山だな。」
「ではでは、あの海に突き出た岬は......」
「あれは真鶴半島。その向こう側に続く陸地は伊豆半島だ。」
俺にとっては子供の頃から毎日目にしている変わり映えの無い景色を、目をキラキラさせながら眺めている紗江の質問に答えながら、暫く一緒に景色を眺めていると、東の空を真っ赤に染めていた朝焼けがいつの間にか消え、黄色く輝く太陽が横浜のビル群の背後から登り始めていた。
それをきっかけに俺はさっきから紗江に聞たかった事を口にする。
「ところで、着物乾いたのか?」
「いえ......まだ大分湿っておりますが、通り雨に降られたと思えば着られぬ事もありませぬゆえ。」
まあそうだろう。
結構生地も厚かったし一晩陰干ししたくらいじゃ乾かないだろうな。
「そんな半乾きの状態じゃ風邪ひくぞ。やっぱり着なれないジャージじゃ落ち着かなかったか?」
「いえ、御貸し頂いたじゃーじとやらは大層楽で御座いました。」
「じゃあ、何で乾いてない着物に着替えたんだ?乾くまでジャージは貸してやるのに。」
「はい。圭太殿がお目覚めになりましたら出立しようと......なので。」
やっぱりか。
ジャージに問題が無いとすれば、着替えた理由は江戸に戻る為の可能性が一番高いだろう。
さっきまでは紗江が居なくなっている事を願っていたけど、それは彼女が江戸時代、自分の居た時代に戻っていて欲しいと思っていたからだ。
一晩とは言え、関わり合いを持ってしまった今、無一文の彼女をこの時代に一人で出て行かせるわけには行かないだろう。
「出立も良いけど、行くあてがあるのか?江戸......今は東京って言うんだけど、東京に行って元の時代に戻れるあてが?」
「あては......御座いません。ですが皆に心配を掛けていると思うと早く戻らなくてはと。戻れば何か手掛かりがあるやも知れませぬ。それに圭太殿にこれ以上ご迷惑をお掛けする訳にも参りませぬ。」
「俺への迷惑は置いといて、金も持ってなきゃ食事も出来ないし、東京に着く前に野垂れ死ぬぞ。」
「それは......し、しかし相模国から江戸迄であれば
確かに四日位なら公園で水でも飲んでいれば食べなくても死ぬことは無いだろうし、東京までたどり着けるかも知れない。また四日分の食費位出してあげても良かった。
だけど日本髪で着物を着た若い女の子が何事も無く東京に到着できるとも思えなかった。
警察に保護されればまだましかもしれないけど、家出だと思った変な男に家に連れ込まれる可能性だって十分ある。って、俺の事じゃないから。
「まあ、紗江の考えは分かった。だけどもっといい方法があるか少し考えないか?」
「もっと良い方法?」
「ああ、あるかどうかは俺にも分からないけど、二人で考えれば何かいい方法が見つかるかも知れないぞ。仮に見つからなくてそれで出発が遅れたとしても一~二時間......一刻程度だし、大して問題ないだろ?」
紗江は暫く俯いて何事かを考えていたけど、恐る恐ると言ったように顔を上げると俺の提案を受け入れてくれた。
「分かりました。それでは圭太殿のご厚意におすがり致します。」
「そうか......それじゃあ、風も冷たいし濡れた着物だと風邪を引くかも知れないから家に入って朝飯にするか。」
「はい!あっ、あの......圭太殿。」
「ん?」
「私の為に何から何まで重ね重ね......何とお礼を申して良いやら。」
「いや、気にするな。俺も昨日の夜は紗江に少し助けられた......からさ。」
すると紗江は俺に向かってニコッっと微笑んだ。
そう。紗江の笑顔で忘れていた何かを少し取り戻せた気がする。
♢
その後、紗江には風邪を引くかも知れないからと、一旦ジャージに着替えて貰った。
着替え終わった紗江は、キッチンまで来て朝食の準備を手伝ってくれたのであっという間に朝食の支度も終わり、いくつかのオカズとご飯、お味噌汁が食卓に並んだ。
朝食を準備している間の紗江は色々な物に興味津々で、ボタン一つで火が付くガスコンロに改めて驚愕し、中が冷たい冷蔵庫に慄き、勝手にご飯が炊ける炊飯器に目を白黒させては、いちいち仕組みを聞いてきたけど、説明するのが面倒だった俺は「そういうカラクリだ。」の一点張りで押し通した。
そして食事中、紗江は昨日の夕飯時に戸惑った事を逆に教えてくれた。
まず、江戸時代の、少なくても武士の家では男女が一緒に食事をすることは無いそうで、最初に当主であるお父さんと世継ぎの弟が食事をし、紗江とお母さんは彼らの食事中は給仕をするそうだ。
そして、二人が食事を終わった後に紗江とお母さんが台所の板の間で女奉公人の給仕で食事を取るらしい。
なので、俺が一緒に食事をするといった事にビックリし、そして夕食のメニューについてもかなり驚いたそうだ。
余程裕福な家でない限り夕飯は大して食べず、良くて湯漬け程度、大体は朝の味噌汁の残りや漬物を少し食べる程度で、夕飯を食べないことも多いらしい。
なので昨日のようなご馳走は生まれて初めてだったそうだ。
今朝も、ご飯、味噌汁、漬物以外に幾つかのオカズがある事に驚き、卵焼きを美味そうに頬張りながら教えてくれた。
夕飯が味噌汁だけなんて、俺が江戸時代に飛ばされていたら生きられそうにない。
そして朝食後、洗い物を終えた俺達は今後の方針、紗江が元の時代に戻れる方法を相談することになった。
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