第9話 眠りに落ちるその前に
紗江と下らない攻防戦を繰り広げていたせいで、あっという間に時計の針は午後九時を回っていた。
半年以上一人で暮らしてきた俺にとっては、あっという間に時間が過ぎる感覚というものは久しぶりであり、また誰かと純粋に会話を楽しむのも久しぶり......
あぁそうか、俺は紗江とのやり取りを楽しいと感じていたのか。
一体会話が楽しいと思ったのはいつ以来だろう。
思い出すのは俺に対する穂香の様子が徐々に変わって行った日から別れるまでの3ヶ月間の事。
お互いの探り合いや負の感情をぶつけ合う白々しい冷めた言葉のやり取りを思い出す。
そんな俺に純粋に会話を楽しむ感覚を久しぶりに思い出させてくれたのが、こんな食い意地がはった旗本の娘だとはな。
まあ、シュークリーム二個とエクレア半分が代金なら安いもんか。
♢
「もうこんな時間だから、俺はそろそろ寝るぞ。」
「そうでございますね。大分夜も更けましたようで。」
ここに戻ってきてからずっと昼も夜も関係ない生活を続けてきたけど、畑をやるようになってからは毎日疲れでこの時間には眠くなるようになっていた。
紗江には色々聞きたい事や考えなきゃいけない事はあるけど、明日の朝には紗江は元の時代に戻っているかも知れないし、面倒くさい事は明日の俺に任せよう。
エクレアも食べられて満足したのか、紗江も寝る事に異論はなさそうだ。
彼女もいきなり知らない場所に連れてこられて疲れているだろう。
「他の部屋は掃除してないんだ。悪いが紗江はここで寝てくれ。」
俺は物置になっている和室の押し入れに仕舞ってあった新品の来客用布団セットをリビングに運んでくると、開封してから紗江に布団を敷いておくように指示する。
「敷き方はわかるか?これが敷布団にこれが掛布団、枕、マクラカバー、シーツ。」
布団カバーも毛布もないけど、一晩中暖房を弱く入れておけば大丈夫だろう。
「大丈夫でございます......が、一つだけ。このしーつというものはどのように?」
「ああ、シーツはこうやって......」
敷かれた敷布団にシーツのセットの仕方を教えると、紗江は丁寧にシーツをセットし始めた。
「大丈夫そうだな。じゃあ、俺は風呂に入って来るから。」
紗江にそう言って風呂に入った後、リビングに戻るとすでに布団は綺麗に敷かれていて、紗江はイスに座ってお茶を飲んでいた。
「圭太殿、どうでしょうか?」
「......すごいな。こんな綺麗に敷かれた布団を見たのは旅館に泊まった時以来だ。」
褒められて嬉しかったのか、紗江はニコッと笑うと照れたように俯いた。
その後、買い置きしておいた予備の歯ブラシを紗江に渡して歯磨きの仕方と、トイレの正しい使い方を教えてやった。夜中にまたトイレ掃除するのも嫌だしな。
「じゃあ、俺は部屋に戻るから。」
「あ、あの、圭太殿。朝まではこちらの部屋には立ち入らないで頂けますでしょうか?もし圭太殿がこちらに立ち入れば......ギラッ!」
紗江は手に持った短刀を引き抜いて銀色に輝く刀身を見せてきた。
てか、今自分の口で「ギラッ」って言ったよな。
「あぁ、分かったよ。間違ってもこっちには来ないわ。」
俺はあんなガキを襲う趣味もないし、あんな物騒な物で刺されたくもない。
せめてE組以上にクラスチェンジしてから出直してこい。
「じゃあ、電気消すぞ。」
「はい......あの、圭太殿。本日は見ず知らずの私を泊めて頂いた上に夕餉まで振舞っていただき誠に有難うございます。また何もお礼をすることができず申し訳ございません。」
ピンと背筋を伸ばし、真っすぐ俺を見つめて真面目な顔でお礼を口にする彼女は、シュークリームを食べてだらしない顔をしていた彼女とは別人のようだ。
その凛とした佇まいは、彼女の美しさと相まって彼女がこの時代の人間ではない事を強く感じさせた。
「別にいいさ。気にするな。」
もし朝起きた時に紗江がこの時代から消えていることになれば、短い付き合いだったけどこれが最後になるだろうと紗江も思っているのだろう。
「......それではお休みなさいませ。」
「あぁ、お休み。」
誰かに感謝され、他愛のない短い挨拶を交わす。
たったそれだけの事だけど悪くない気分だ。
(こんな感じ......久しぶりだな。)
そんな事を考えつつ自分の部屋に戻って、そのままベットに潜った俺はすぐに眠りに落ちていった。
♢
清潔で温かく柔らかい布団に入って目を閉じる。
まだまだ油断するべきではないと思っていても、何とか一山乗り越えたと感じたことで、ここまで張りつめていた緊張の糸が急に切れてしまう。
すると、無理に虚勢を張っていた仮面が剥がれて本来の臆病な自分に戻って行き、押し殺していた不安や恐怖と言った感情に支配されていくにつれ、ここに来てから無理やり考えないようにしていた色々な事が頭を駆け巡る。
何でこんなことになってしまったのだろう。今日一日でこの身に起きた事を思い返すと、久しぶりの外出に浮かれ、”はる”と一緒に八幡様の祭礼を目一杯楽しんでいた半日前の事が、遥か昔の事のように感じられる。
父上様、母上様、弟の角之進は今頃どうしているだろうか。
私が神隠しにあったと嘆いているであろうか。
また”はる”は大丈夫だろうか?責任を感じて自分を責めていないだろうか?
母上様が”はる”を責めたり暇を出したりすることはないと思うが、やっぱり”はる”のことが一番心配だ。
一刻も早く戻って皆を安心させたいが、元に戻る方法は圭太殿にも分からないらしい。圭太殿が言うように朝起きれば何事も無かったかのように江戸に戻れているだろうか。
そのような事を考えていると、ずっと我慢していた涙が自然と零れていた。
そして次に頭に浮かんだのはあの男、吉野圭太殿。
ここが相模国だと聞いた時、すでに暗くなりかけた空を見て夜道を女一人で歩くのは危険だと判断した私が危険を承知で一晩の宿を借りる事にしたのは、少し話して圭太殿が決して悪い人でないと直感したからだ。
だがそれでもまだ油断は出来ない。
女一人だと侮られないように、無理に明るく虚勢を張っていた事が幸いしたのか、今の所は圭太殿が悪心を起こすようには見えないが、寝込みを襲われる可能性も十分あり得る。
が、そのような事が起きた場合の作法もお母上様に散々教えられてきた。
かんざしで相手の目を突き、相手が怯んだ隙に逃げること。
もし逃げられなかった場合は辱めを受ける前に短刀で自害すること。
もし圭太殿が私を手籠めにしようとこの部屋に入ってきたら私に上手く出来るだろうか?
私は閉じていた目を開けると、布団に入ったままで枕元に置いた短刀に手を伸ばし、素早く鞘を払って抜き身の刀身を自分の首筋に宛がってみる。
そして暗がりの中で私に覆いかぶさってくる圭太殿を想像してみるのだけど、想像の中の圭太殿の顔は、何故か私にシュークリームを取られた時の、何とも情けない表情をしていた。
その顔を思い出すと、自害の手順を確認している自分の気負いが少し滑稽に思えたので、短刀を仕舞うと再び目を閉じて圭太殿の事を考える。
それにしても何とも不思議な人だ。
口が悪くあまり品もないが、圭太殿には良くも悪くも覇気と言うものが感じられず、冗談を言っている時や怒った時でも、ときどき憂いを帯びた様な色を瞳に宿していることがあった。
その覇気の無さが私がここに一晩の宿を求めた理由の一つでもあるのだけれど。
そして女子のような優し気なお顔を見るに、年の頃は私と同じ位、十六、七だろう。
その若さでご浪人とはどのような事情があったのだろう。
ただ、このまま眠りについて起きてみれば、何事も無かったように江戸に戻れているかもしれないという淡い期待と願い。
その淡い期待通りとなれば、圭太殿の御年を聞くことも叶わないであろう。
(もう少し圭太殿とお話しをしたかった......ような。)
そのような事を思った後、私は深い眠りに落ちていった。
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