第31話 元カノ襲来

なんでこうなったのだろう。いや、理由は分かっている。

全部自分のせいだってことは。


今日は十一月十四日、土曜日。時刻は午後六時。

俺は約束の時間の五分前に約束の場所に到着して穂香を待ちながら、今更どうでも良い過去の事を思い返していた。


♢♢♢


大崎穂香と出会ったのは大学を卒業して入社した会社の新入社員研修だった。

ショートボブの黒髪にメガネ。大人しかった彼女と目立たない俺は何故か気が合い、いつの間にかプライベートでも会う事が増えていった。


「吉野君とは一緒にいても緊張しないでホッとするなー。」


そんな事を言う穂香と俺はいつしか自然と付き合う事になっていた。


俺が入社した会社は建前上は社内恋愛が禁止されていた。

とは言っても、会社も社員のプライベートにあまり口を挟む事はなく、要は業務に支障が出たり、問題さえ起こさなければ黙認するといった事だった。

だからと言って、入社したての俺達が大っぴらに付き合っている事は公言しにくく、希望配属先は同じビル内でもフロアの違う部署だったため、誰にも知られる事なく俺達の交際は続いてきた。


その間、地味で大人しかった彼女も徐々に変わってきた。

黒かった髪を伸ばして少し明るい色に染め、眼鏡もコンタクトに変え、社会人としての最低限しかしていなかった化粧も上手くなっていった。

出会った頃とはまるで印象が変わった穂香は、もともと整った顔立ちをさらに際立たせ、周囲の目を引くようになっていった。

俺の好みでそうしたわけじゃなく、社会人として働くうちに徐々に自分に自信がついてきた表れだろう。


それでも、俺と一緒にいる時の穂香は、昔と同じ優しい大人しい穂香のままだった。

そんな穂香とこの先ずっと一緒にいられたら。


夢なんて無かった俺が初めて見た小さな夢。

穂香と結婚して、子供が出来て、一緒に年を取って......


そんな俺をよそに、彼女の様子が変わっていったのは、別れる三ヶ月前のゴールデンウィークが明けた頃からだった。

毎日頻繁に穂香から送られて来ていたメッセージが徐々に少なくなっていき、以前だったらすぐに帰ってきたメッセージへの返信が遅くなっていった。

俺と会っている時も、心ここにあらずといった感じが多くなって生返事も増え、ときどき取り繕うように明るく振舞う。

それまでは毎週末、俺のアパートに泊まりに来ていたが、「仕事が立て込んで」「友達と出かける」などの理由で徐々に泊まりに来ることも減っていった。

それでも、入社して三年目の当時はお互い仕事が大変なのが分かっていたので、俺は穂香に疑いを持つこともなかった。


そしてあの日。信じていた穂香に裏切られた、別れる一週間前の金曜日。

その日の定時後、仕事が終わったら社外で待ち合わせをして、久しぶりに夕食を一緒にとろうと穂香にメッセージをした。


「ごめん!今日は残業で遅くなりそうで行けそうにありません。」


そんな返信に肩を落としながら、「頑張って!」とだけ返して会社を後にした。

十分後、会社の最寄り駅まで着き、定期券を出そうと鞄を探るが見つからない。

そういえば昼休みに飲み物を買おうとして、鞄から定期と財布を出した時に先輩から呼ばれ、慌てて机の引き出しに仕舞ったっけ。

定期も財布も無くてはアパートに帰れない。俺は仕方なく、また十分かけて会社まで戻った。

そして会社のビルが目に入った時、ビルの入り口から穂香が出てくるのを見つけた。


(あれ?残業無くなったのか?)


そうなら連絡してくれればいいのに。

そう思いつつも、穂香に声を掛けようと手を上げた時、穂香が会社のビルから少し離れた所に隠れるように立っていた男に駆け寄った。


その男は何回か見た事があった。

穂香の部署の何年か先輩で、今年の春から穂香の直接の上司となった男。

そういえば、以前は頻繁にその先輩の事を口にしていた穂香が、春からぱったりと口にしなくなったことを思い出した。


二言三言笑顔で言葉を交わした二人は、動けずに呆然と見つめる俺に背を向けて、駅とは逆方向に向かって歩き出す。

そして、その男が差し出した腕に穂香が抱き着くと、夜の街に消えて行った。


それから別れるまでの一週間は俺にとって地獄だった。

穂香を信じたい気持ちと裏切られた気持ちが入り混じり夜も眠れず、うじうじと悩んだ末に勇気を出して連絡しても、繋がらない電話や返信のないメッセージ。

同期の連中や穂香と同じ部署の人に色々話を聞いて、あの二人が付き合っている事は結構噂になっている事も分かった。


だから穂香から会って話がしたいと連絡があった時は、どこかホッとしている自分が居た。

お互い全て分かった上での別れ話。どちらかが別れを切り出せば、お互い頷くだけでこの苦しみからすぐ解放されるんだ。その時はただそう思っていた。


あの時の俺は一体いつからあんな風になってしまったのだろう。



♢♢♢



いつも時間にルーズだった穂香が時間ピッタリにやってきて俺の前に座っている。

最後に会ってからまだ一年三ヶ月しか経ってないけど、随分久しぶりの様な気がするからか、あぁ、こんな顔だったっけ位の感想しか出てこない。


場所は俺の地元の駅前のトロールコーヒー。

いつも三十分も電車に乗ると疲れたと言い出していた穂香が、一時間も掛けてこんな田舎町まできた事がビックリだ。


「久しぶり、元気だった?突然会いたいなんて言ってごめんね。」


嬉しそうに、ごめんね。なんて、思っても居ない事を口にする穂香を見て、変わってないなと思ってしまう。


「なんか圭太変わったね。日に焼けて少し逞しくなったって言うか......」


そんな事はどうでもいい。

わざわざこんな所まで来たのは世間話をする為じゃないだろう。

どうせろくでもない事を言い出すだろうから、早く終わらせて店を出たい。

この後、紗江と優奈と一緒に飯を食いに行くことになっていて、今は紗江を優奈の店で預かってもらっているんだから。

因みに二人には穂香と会う事やこれまでの経緯を全て話した上で送り出されてきた。


「で、わざわざこんな所まで来て、したい話ってのは何だ?」


俺がそう切り出すと、穂香は急にしおらしい表情になり、俯いて黙り込んだ。

今の俺はそんな穂香の様子を見てもイラっとするだけだが、少し待っていると漸く口を開いた。


「圭太って、今付き合っている人とかって......いるのかな?ごめんねいきなりこんなこと聞いて。」

「いや、居ないけど?」


紗江の事が頭に浮かんで少し胸が痛むけど、そう答えた方が穂香の目的を彼女自身の口から言わせる事ができそうだ。

ただ、いきなりそんな事を聞いてきたことで、穂香が何のためにわざわざここまで来たか大体分かってしまった。


「そっ、そうなんだ!実は私も......」


すると、穂香は俯いていた顔を少し上げて微笑んだ。


「それでね、あの時......圭太と別れた時、私、仕事の事で悩んでいて......本当は圭太に相談すれば良かったのに......だけど自分でどうにかしなきゃって......だから......あの時は圭太を無視したり辛く当たってしまって......ごめんなさい。」

「はっ?」


俺は話の意外さに、思わず小さく声を漏らしてしまった。

当時お互い忙しかったのは事実だ。だけどそれが理由で俺に辛く当たった?

もしかしてこいつ、浮気してたことを俺にバレてないとでも思ってるんじゃないか?

だとしたら、今更平気な顔してのこのこと俺に会いに来たことも納得できる。


彼女はいつからこんな人間になってしまったのだろう。

俺の記憶にあった優しかった穂香とかけ離れた、目の前で項垂れている穂香が急に得体の知れない気持ち悪い人間に見えてくる。


「だけど、圭太と別れて一人ぼっちになって......改めて自分にとってどれほど圭太が大切な存在かって気が付いたの。」


そう言って指で押さえた穂香の目元には本当に涙が浮かんでいる。

いやいや、気持ち悪いけど穂香の言っている事が本当の可能性だって0.1%ぐらいはあるかも知れない。

一年前の俺がこんな話を聞かされたら、激高してすぐに席を立って、後になって後悔して、疑いがぬぐえないまま言いくるめられて、結局許していたかもしれない。


「それで?」


「自分勝手だって分かってる。私が勝手に圭太から離れて行ったくせに、今更こうやって会いに来て......でも......いきなり元通り何て言わない......けど、もし出来たらもう一度始めからやり直すチャンスをくれないかな?」


予想通りのセリフに失笑を通り越して、可哀想になってきた。

別れる時にキッチリ浮気の説明を聞かずに逃げた俺の責任もあるだろうし、もうこれ以上穂香の話に付き合っても時間の無駄だろう。

だから俺は穂香が口にしない一番大事な事を代わりに口にする。


「ていうか、あの先輩はどうしたんだよ?お前の上司だった......確か、五十嵐だっけ?」


俺は去年の夏に言えなかった、聞けなかった事を一年三ヶ月経ってやっと穂香に突き付ける。


「えっ......」


俺の口から出てきた言葉が意外だったのか、穂香は驚いた表情で動きを止めた。

いやいや、本当に俺にバレてないと思ってたんだ......


「去年の八月の始め。俺が久しぶりに飯食いに行こうってお前を誘った時、お前、残業があるって断ったよな?だから俺は一人で帰ろうとして、忘れ物を思い出して会社に戻ったんだよ。」

「......」


驚いた表情のまま顔色が引いていく穂香の手は小刻みに震えている。


「そうしたら、偶然見ちゃったんだよ。お前とあの五十嵐って奴が仲良く腕を組んで歩いていく所をさ。」

「......えっと......ちっ、違うの、あれはそうじゃなくて!たまたま―――」


穂香は一瞬いつの事だか考える素振りを見せる。

多分穂香にはいつもの事で、俺がいつの事を言っているのかも覚えていないのだろう。

何が違うのかは分からないが、こういう時に口にするセリフを言っただけだと思い、俺は穂香の話を遮って続ける。


「俺はそれから同期の奴やお前の部署の人にそれとなく探りを入れたら、お前と五十嵐って奴の事はみんな知ってたぞ?俺と付き合っている事はちゃんと秘密にできてたのにな。」

「あ......」


時計を確認すると、既に三十分以上経っている。

紗江達には三十分くらいで戻るって言っているから、遅い俺を探しに来てしまうかも知れない。


「で、どうせあの五十嵐って奴に振られたんだろ?だから今更、浮気した事がバレていないと思って俺とヨリを戻したい。と。」

「ご、ごめんなさい!でも私、圭太と別れて、圭太が居なくなってから、私にとってどれだけ圭太が大事か分かって......それは本当で......」


窓の外に目をやると、商店街のほうから紗江と優奈がこっちに歩いてくるのが目に入った。

こんなみっともない所を二人に見られたくないなと思い、穂香と会う場所まで教えてしまった事を後悔する。


「まあ、今更お前とヨリを戻す事なんて絶対ないし、お前と会うのもこれが最後だ。」


俺は空になったコーヒーのトレイを手に取って立ち上がった。


「圭太......」


呆然と俺を見上げる穂香に、俺が知っている最後の事実を口にする。


「ヨリを戻すんだったら、あの五十嵐って奴とヨリを戻せば良いじゃないか。でもあれか、あいつには本命の彼女が居たんだっけ?」


すると、穂香は口をキュっと結び俯いた。

穂香がそのことを知っていて、あの男と浮気したのかまでは分からない。

もしかしたら穂香も騙されていたのかも知れないけど、俺には関係ない事だ。


店内にいる俺の姿を見つけた紗江と優奈が、窓の向こうから笑顔で俺に手を振ってきた。


「穂香、ありがとな。じゃあ......気を付けて帰れよ。」


俯いたまま微動だにしない穂香を残して店を出ると、紗江と優奈が駆け寄ってきた。


「圭太殿、もう宜しいのですか?」

「ああ、全然、大丈夫だ。」


俺の顔を覗き込むようにして少し心配そうに訪ねてきた紗江にそう答えると紗江は少しほっとしたように笑顔を浮かべた。


「つーかお前ら、外から手を振って来るなよ!深刻な話の最中だったらどうするんだよ!」

「アハハッ!ゴメン。圭太が席を立ってたから、もう終わりかな~って。」

「それより圭太殿、紗江はハンバーグが食べたいです!」


優奈が笑ってごまかすと、紗江は、自分は知らないとばかりに、俺の手を掴んで歩き出す。


「紗江ちゃんお肉好きだけど、紗江ちゃんの時代ってお肉食べないんでしょ?大丈夫なの?」

「もう遅いのです。私の知らない間に圭太殿が卑怯にも毎回食事にお肉を混入させていたので、私はもうお肉の味を知ってしまったのです。圭太殿に穢されたのです!」

「紗江、言い方!第一お前、肉入ってる事教えた時、「ああそうですか、美味しいので大丈夫です」って言ってただろ!大丈夫かどうかを美味しさで判断するなよ。」


三人で歩きながらいつもと同じ会話を繰り広げる。

いつもと同じだけど、何故か二人の優しさを感じてしまうのは気のせいだろうか?


「紗江、お前、その熊のバケモノが付いた気色悪いパーカー好きだな。」

「なっ!気色悪くなんかないです!とても可愛いじゃないですか!ねぇ、優奈さん?優奈さんもそう思いますよね?」

「あ、あはは......そう......ね。とっても個性的で良い......と思うわ。」

「ほら!優奈さんもそう言ってます。圭太殿にはふぁっしょんの事が分からないのです!優奈さんもお揃いで買いましょうよ。圭太殿に言えば、ぱそこんですぐに買ってくれますから!」


今日穂香に会って分かった事。彼女の事もすでに苦い思い出に変わってきつつある。

それも全て紗江と優奈のお陰だ。

だから俺は声に出して二人にお礼を言う。


「二人ともありがとう。」


突然お礼を言われた紗江はポカンとした顔で俺を見上げてきて、優奈はいつもの様にニヤリと悪い笑顔を浮かべた。


「紗江ちゃん、このおじさん、私達に服を買ってあげたり美味しい物をご馳走するのが生き甲斐らしいわよ!今日は一番高い物を食べようか?」


意味が分かったらしい優奈がそんな事を言って茶化してきて、意味の分からなかった紗江は、一番高い物=一番美味しいと思って興奮したのか、更に俺の腕を強く引っ張ってぐいぐいと足を速める。


わざわざ全てを終わらせるためにここまで足を運んでくれた穂香。

もしあの時穂香に振られなかったら、今こうして三人で歩いている事は無かっただろう。


(ありがとう......)


心の中で、もう二度と会う事も無い彼女にも改めてお礼を言った。


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