第32話 風邪

多くても年に一~二回しか雪が降らない比較的温暖なこの町も、最近は朝晩冷え込む事が多くなり、我が家の周りの山々も先週から赤や黄色に色づき始め、今は紅葉真っ盛りだ。

家の前を通るローカルな登山道に続く車道でさえ、毎日何十組もの登山客が紅葉を楽しみながら通り過ぎて行く。


今日は十一月二十五日、水曜日。時刻は午前十時半。

紗江が突然現れた八か月ほど前から続いていた水蒸気の多い季節では、庭から眺める景色も霞みかかかったようにぼやけている日が多かったけど、十一月になり気温が下がるにつれて、冷たく澄んだ空気に変わってきて、天気が良い日には新宿新都心のビル群や東京タワー、目の調子が良いとスカイツリーまで見える日も増えてきた。


「お天気も良く、本当に良い景色ですね。」


掃除と洗濯が終わって、休憩の為に縁側に正座をした紗江がお茶を飲みながら、目の前に広がる紅葉と秋の日差しに照らされてキラキラ光る海を見ながら呟くのを、ダイニングのイスに座ってパソコンで調べものをしていた俺が後ろから眺めていた。


ここ最近俺が調べているのは、身元不明者が保護された場合にその後どういった扱いを受けるかと言う事だった。

現代でも身元不明者が保護されることは結構多いようで、道路に倒れていたり、駅で迷子になっている人が記憶喪失で身元を証明できるものが一切ない場合などは保護施設に入って身元引受人が現れるのを待つか、自分で生活できるようであれば自活しているらしい。


俺がまた最近にこんなことを熱心に調べる事になったのは、例の石が関係している。

優奈のひらめきで祠に例の石を置いてから三ヶ月以上経った。

毎日少しづつだけど、石は変化し続け、今では弱いながらも青い光を放つようになってきている。

紗江が言うにはもっと明るく光っていたらしいけど、この調子でいけば近いうちに紗江が言っているように明るく光るのは間違いないだろう。


その時が来たら紗江はどうするのだろうか。


紗江の想いを聞いて自分の気持ちを打ち明けたあの日から、少しずつ変化していく石を見るたびに、紗江を離したくない気持ちが大きくなっていった俺は、紗江の気持ちが聞けなくなっていった。


あの石が光ったからって紗江が帰れると決まった訳じゃない―――


その時から逃げるようにそんな事を考えても、心の何処かでその時が近づいているのを分かっていた。

だから、紗江がここに残りたいと決めた時のことを考えて、俺はそんなことを一生懸命に調べていた。


「圭太殿、紅葉も綺麗ですし、今日のお昼は花火を見た広場まで行って、おにぎりにしませんか?」


逆光の中、不意に振り向いた紗江が微笑みながらそう言った。


「天気もいいし、風もないから良いかもな。」


紗江の提案を受け入れ、パソコンを閉じて大きく伸びをする。

紗江は天気が良いと外で食事をしたがる。

庭だったり、あの広場だったり、一昨日は半日程二人で山を散策しながら紅葉の中でお昼を食べた。


「やった!それでは早速準備をしますね。」


そう言って立ち上がった紗江は急にふらつくと、そのまま縁側に倒れこんだ。


「紗江!」


俺は倒れた紗江に急いで駆け寄って抱き起したが、少し息が荒く顔も赤くなっている。


「大丈夫でございます......少しふらっとしただけで......準備をしませんと......」


紗江はそう言って起き上がろうとするが、少し目も虚ろだ。

紗江のおでこに手を当てるとかなり熱い。


「何言ってんだ!布団を敷いてくるからちょっと待ってろ!」


俺は紗江の部屋に行って布団を敷くと、再び紗江の下に戻ってそのまま布団まで抱きかかえて連れて行って寝かせた。


「38.2度か......やっぱり熱があるじゃねーか。」


体温を測ると結構熱が出ている。

熱さましの冷感シートを紗江のおでこに貼ってから風邪薬を探したけど、あいにく切らしていた。


「紗江、大人しく寝てろよ。ちょっと薬を買ってくるから。」

「わざわざ......大丈夫です。少し熱が出ただけですから少し横になっていればすぐに治ります。」

「いいから寝てろ。一時間くらいで戻るから。」


俺は紗江を置いて車に乗るとドラッグストアとスーパーに向かい、漢方の風邪薬や冷感シート、スポーツドリンクやヨーグルトやバナナなどの風邪に良さそうな食料品を買い込んでからすぐに家に戻った。


俺が買い物に行っている間に紗江は眠っていたらしいが、俺が帰って来たことで目を覚ました。


「少し楽になりました......」


そう言って笑顔を見せる紗江の体温を測るとまだ38度以上ある。

幸い余り食欲は落ちてないらしく、俺はすぐにお粥を作って紗江に食べさせると、薬を飲ませてからまた寝かしつけた。


午後九時。

遅めの夕飯をうどんで簡単に済ませてから紗江の様子を見に行くと、紗江はぐっすりと寝ていた。

少し荒かった呼吸も普段通りに戻っていて、顔はまだ少し赤く、熱はありそうだけど大分楽になったように見えた。

俺は少しホッとして、紗江が起きないようにそっと部屋を出ようとした時に紗江が目を覚ました。


「ごめん、起こしちゃったか?」

「いいえ......もうだいぶ楽になりました。」


紗江は、よいしょ。と掛け声を出して上半身を起こす。

熱を測ると薬が効いたらしく37.5度まで下がっていたので一安心だ。

その後、紗江にスポーツドリンクを飲ませ、お腹が空いたと言うのでバナナを一本食べさせ、薬を飲ませてから再び布団に寝かしつけた。


その晩、俺はなかなか寝付けなかった。

紗江の具合が心配で時々様子を見に行ったのもあるけど、紗江の病気について考えてしまうと眠れなくなっていた。

今回は風邪のようだから良かったものの、もし医者に掛かるような病気やケガをしたら、保険証も持っていない紗江はどうすればいいのか。

いや、保険証はそれほど問題じゃない。限度があるが、高くてもお金さえ払えばいいし、紗江を公に保護した後は俺が健康保険に入れてやれば済む話だ。


問題は紗江が百五十六年前に生活していたという事だ。

多分この時代は紗江がいた時代より色々な病気が存在しているだろう。

俺や優奈ようにこの時代に生まれて育っていれば、色々な病気に対して耐性があって普通に生活できても、紗江にとっては未知の病原菌に常に脅かされている事になる。

俺だったら軽い風邪のような症状で済んでも、紗江は命に係わるほどに重症化してしまうかも知れない。


今まで紗江を人が多い場所に連れて行ったのは、横浜にデートに行った時くらいで、あとは比較的人の少ない海や、家の周りの山にしか出かけていないし、スーパーやショッピングセンターに行くときもなるべく人目につかない空いている時間に行っていたのが良かったのかも知れない。


だけどこの先、もし紗江がずっと俺と一緒にこの時代で暮らしたいと言ったら?

紗江に今までのように、人目につかないように隠れて暮らす事を強制させるのだろうか。


いや......いくら隠れて暮らしてもこの時代に居る限り限界があるだろう。


窓から見える空が白み始めても、俺はそればかり考えていた。


♢♢♢


「圭太殿。もうすっかり良くなりました!」


布団の上に座って、笑顔でそういう紗江の顔色は普段と変わらないようだ。

熱を測ったら36.5度まで下がっていて、ほぼ平熱に近い状態だ。

多分薬が良く効いたのだろう。

だから、その、薬が良く効くという事が、俺にとっては逆に恐怖に感じてしまう。


「良かったな。だけど今無理したらまたぶり返すかも知れないから、暫くは大人しく寝ていろよ。」

「えへへ......少し退屈ですけどそう致します。」


昨日までは無理に起きようとしていたのに、今日の紗江は嬉しそうに素直に従う。


「だって、風邪を引いただけで圭太殿がこんなに優しくしてくれるのですから......もう少しだけこうやって甘えていたいのです......」


そう言って紗江は布団の中から手を出してきて俺の手を握る。

いつもだったら呆れて笑ってしまうようなその言葉も、今の俺には心から笑えない。


「ああ、いくらでも甘えて良いから何かあったらすぐ呼べよ。」

「え?あぁ、はい。それではお言葉に甘えてそうさせて頂きます。」


俺の返事が意外だったのか、少し戸惑った紗江を再び寝かしつけてから、俺は紗江の部屋を出た。


♢♢♢


午後二時。

俺は一人で祠の前に来て、例の石を見ている。

薄暗い淡い青だったその石は、祠の中で少し透き通ったようなマリンブルーに変わっていて、青い光を放っている。


昨日まではこの石が光るのを少しでも遅れて欲しいと願っていたのに、今の俺は早く光る様に願っている。


紗江とずっと一緒に暮らしたい気持ちと、病気にならないうちに早く無事に送り届けたい気持ち。


夏の終わり、家族の元に帰りたい気持ちとここに残りたい気持ちで悩んでいた紗江。

紗江は徐々に光始めた石を見ながら、今は何を考えているのだろう。


そして......その時が来たら俺はどう決断するのだろう。


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