第33話 約束
今日は十二月十六日、水曜日。
山の木々は葉を落とし、日に日に寒さが強くなっている。
今年も残り半月を切り、テレビではクリスマス特集や各地で行われる年末行事を流しているが、俺と紗江の生活は今までと変わりがない。
紗江が風邪を引いて暫くは、俺は紗江を極力外に出さないようにしていたのだけど、そんな俺の様子を訝しんだ紗江に問い詰められ、俺は病気の不安について紗江に話した。
「圭太殿。私は大丈夫ですから、人の多い場所に行きたいと言いませんので、せめて今まで通りに......」
泣きながらそう言う紗江に押し切られ、結局は今まで通りの生活を続けることになった。
それから今日まで、紗江の様子は変わらない。
家事をして、写真を撮り、優奈と遊んで、よく食べ、よく笑い、よく怒り、よく泣いた。
今までと同じように俺に甘えてきて、今までと同じように冗談を言って、今までと同じように良く喋った。
唯一変わった事と言えば例の石だ。
あれから光は徐々に強くなり、今では夜に見ると祠が青白く光っているのが分かるまでになっていた。
紗江は何も言わないし、未だに答えの出ていない俺も何も聞けなかった。
だから石の光が強くなればなるほど、俺の気持ちも沈んでいった。
♢♢♢
「圭太殿、今日は畑には出ないのですか?」
朝食後、ずっと縁側に座ってぼんやりしていた俺に、掃除と洗濯を終えた紗江が声を掛けてきた。
「ん?あぁ、今日は止めとくかな。」
今日は風も無く穏やかな晴天で、本当だったら白菜やブロッコリーの収穫をする予定だったけど、何となくそんな気になれずにいた。
すると、縁側で胡坐をかいて座る俺の横に正座をした紗江は、いつものようにニコニコと微笑んで言った。
「では、圭太殿に一つお願いがあるのです。」
「お願い?」
「はい、これから海に連れて行ってもらいたいのです。」
「海に?」
「以前、私がこの時代に来たばかりの頃、初めて圭太殿に海に連れて行って貰った時の事、覚えていますか?」
「ああ。」
よく覚えてる。初めて見る海に興奮した紗江が転んで、びしょびしょになって、散々遊んだ春の海。
「あの時、また連れてきてくれるって約束したのも覚えていますか?」
確か、海が気に入った紗江にそんな約束をした気がする。
「でも、あれから何回も海には行っただろ?」
「私が行きたいのは、約束したのは......初めて行ったあの海に、圭太殿と二人で行くことなのです。」
そう言って俺を見つめてくる紗江は、いつもと変わらない美しい笑顔で、いつもと違って儚げな笑顔だった。
「ですから......ね?」
♢♢♢
「圭太殿!海です!海が見えてきました!」
冬の穏やかな日の光を浴びてキラキラ光る海を見て、紗江が声を上げる。
海沿いの国道まで出ると、春に来た時と同じように、助手席側に海が来るように西に向けて車を走らせる。
「紗江、風邪ひくといけないからあまり窓を開けるなよ。」
窓を開けて顔を出そうとする紗江に注意するが、紗江は冷たい冬の潮風を顔に受けて笑っている。
そんな紗江に呆れつつ、この前と同じ海沿いの駐車場に車を停める。
この前と違うのは紗江が車酔いしなくなったことだ。
車を降りた俺と紗江はこの前と同じように砂浜まで下りる。
砂浜に着いた紗江はコートとブーツを脱いで裸足になり、海へ向かって走り出した。
「紗江!もう水は冷たいから止めておけ!」
俺が慌てて引き止めようと声を掛けたが、紗江は笑顔でこっちを振り返って、手を振ったままそのまま走って行ってしまう。
「せめて転ばないようにしてくれよ......」
俺はその場に腰を下ろすと、小さくそう呟いてから冬の海に足を着ける紗江を見守っていた。
♢♢♢
その後、三十分程遊んでいた紗江が戻ってきたので、その場でお昼にすることにした。
「海は思ってたほど冷たくありませんでしたよ!」
いつもと同じように一人で感想を喋っている紗江は、イチゴのサンドウィッチと温かいミルクティーという、以前見た様な甘い組み合わせの昼食を摂っている。
俺はおにぎりを頬張って、時々相槌を打ちながら紗江の話を聞いていた。
昼食後、紗江はいつもの様に色々写真を撮りながらそこら辺を歩き回り、俺は砂浜に座りながら海を眺めていた。
風もなく穏やかな日差しが降り注ぎ、凪いだ海がキラキラと輝いている。
天気予報では明日の午後から崩れて、もしかしたら雪が降るかも知れないと言っているのが嘘のように暖かだ。
写真を撮ることに満足したのか、紗江が戻って来て俺にもたれ掛かる様に腰を下ろし、俺達は黙って穏やかな海を暫く見つめていた。
ずっとこうして二人でいられたら―――
そう思ってしまう自分を、それが叶わないと分かっている自分が冷静に見ていた。
そんな俺の心を見透かしたように紗江がポツリと口を開いた。
「圭太殿......約束が叶って嬉しいです。」
「そっか......」
俺に身体を預けたまま紗江が呟く。
たぶんこの後、紗江が口にする内容もどこかで分かっている。
「最後の約束も叶いました。だから......」
「......」
分かっていても、俺の身体が本能的に紗江の言葉の続きを聞きたくないと、拒否してしまい言葉が出ない。
「だから私は......明日、帰ります......」
今朝、海に行きたいと言った時の紗江の目を見た時から薄々分かっていた。
なぜ今、あの石が光っているタイミングで約束なんて言葉を紗江が持ち出したのか、分かっていた。
先週、冬物のコートやブーツを買いに行ったとき、やけに遠慮する紗江を見て、いつもと変わらず振舞う紗江を見て、俺は紗江が帰ることを決めている事にどこかで気が付いていた。
「......いつ、帰ろうと決めたんだ?」
それでも紗江の覚悟を決めた声を前に、俺も逃げるわけにはいかない。
「そうですね......たぶんあの日......圭太殿に私の想いを打ち明けて、圭太殿の気持ちが聞けたあの日......に」
「あぁ、あの日......」
そっか......俺が紗江と一緒に居たい気持ちと紗江が帰れるように願う矛盾に気付いた時に、紗江はもう決断してたんだな。
「あの時、圭太殿が私と同じ気持ちだと知れて本当に嬉しくて、こんなに幸せなことは無い、これ以上贅沢を言ったら罰が当っちゃうと。だから......もう、いつ皆の元に帰っても私は大丈夫、だから後は皆を安心させることが出来れば。このままここに残ったら家族の皆や"はる"をいつまでも悲しませることになってしまいますもの......」
「そう、だな......」
「それに、最近、私が病気になった時の事を考えて悩む圭太殿を見て、これ以上圭太殿にはご迷惑をお掛けできませんし。」
「そんな事言うなよ......そんな事ないさ。」
「あはっ、そうですね......でも、たくさん美味しい物を食べられて、たくさん美しい物も見られて、不思議な経験もたくさん出来て、優奈さんの様な素敵な人に出会えて......」
「......」
「そして......そして!圭太殿を好きになれてっ......」
涙声に変わった紗江が俺の手を強く掴んだ。
「紗江......」
「人に出来ないような素敵な経験を沢山させたのだから、もう帰って来いと、あの石も......神様もそう言っている気がします。だからもう帰らなければいけないと。」
紗江の言葉や声で、紗江の意思が、決意が固い事を感じた俺も決断せざる負えなかった。
そうだな......こいつは初めっから、意地っ張りで頑固で我儘で......
寂しがり屋で怖がりで甘えん坊で優しい......お姫様だから。
紗江が覚悟を持って自分で決めた紗江の生き方だ。
もう俺に言える事は何もない。
俺に頭を預けて海を見ながら涙を流す紗江に、今の俺が出来る事。
紗江の頭を抱き寄せて髪をなでると、つややかな黒髪がサラサラと指の間から零れ落ちて行く。
「紗江、もう少し海で遊んでいこうか。俺も足までなら海に入ってみたくなったよ。」
「圭太殿......」
涙を零しながら笑顔を見せる紗江を見て、俺は腰を上げた。
「はい......一緒に遊びましょう!」
帰りにシュークリームをたくさん買おう。
夕飯は紗江の好きな鳥の唐揚げにしよう。
明日は優奈の所にいって三人で笑おう。
最後はお互い笑顔で紗江を送り出してあげよう。
そうだ、最後まで俺のやるべきことは......俺に出来る事は......
紗江がいつも笑っていられるように―――
この時代にいる最後の瞬間まで笑顔でいられるように―――
初めて会ったあの日から、俺はただ紗江の笑顔が見ていたいだけなんだ。
俺は靴を脱ぐと、紗江の手を引いて冬の海に向かって走り出した。
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