第34話 初雪

十二月十七日、木曜日。


朝起きると、昨日の穏やかな晴天とは打って変わって、空はどんよりとした灰色の雲に覆われていた。

天気予報通り、これから気温もグングン下がり、午後からは雪になる確率が高いらしい。

俺の住んでいるこの町で十二月に雪が降る事は殆どないから、もし雪になったら非常に珍しい事になるだろう。


昨日、紗江が元の時代に帰ると言ってからも、俺と紗江の日常に変わりは無かった。

あれから二人で海で遊んで、帰りにペトリコールに寄ってシュークリームを買って、一緒に夕飯のから揚げを作って、たくさん食べて、シュークリームの争奪戦をやって。

結局争奪戦は最後まで紗江に勝てなかったけど、最後の一個を満足そうに食べる紗江を見ていたら、それで良かったと思う。


「それでは、圭太殿。行きましょうか。」


いつも通りの朝食後、沢山の荷物を持った紗江が声を掛けてきた。

着物や帯、簪などが入っているであろう袋を手に下げて、いつもの様に俺にニッコリと微笑む。

昨日の夜、優奈に電話して紗江が帰る事と、髪や着付けを手伝ってほしい事を簡潔に説明したので、今日はこれから優奈の店に行く予定だ。

電話口で暫く黙っていた優奈は、「分かった」と小さく呟いただけで電話を切ったけど、優奈が泣いているのが電話から伝わってきた。


♢♢♢


午前九時半。

紗江を乗せてビューティーサロン晴美に到着した俺は、「二時間くらいどこかで時間を潰してきて」と優奈に言われ、一旦家に戻って掃除や洗濯をした。

二人だけで話したい事も沢山あるのだろう。


そして約束の二時間後、俺は再び優奈の店に戻った。

店の扉を開けると、初めて会った時と同じ、つややかな黒髪を結い上げ、淡い水色の綺麗な着物をまとった紗江が店の奥から出てきた所だった。

久しぶりに見る紗江の着物姿。

優奈に施された化粧で一段と大人びて見え、美しくなっていた。


「紗江、綺麗だな。」


気の利いた言葉なんて出てこない。ただ思った事をそのまま口にすることしかできない。


「有難うございます。圭太殿にそう行って貰えて......一番嬉しい。」


既に優奈と一緒に散々泣いたと思われる、赤くなった紗江の瞳が俺を見つめたまま、また潤んでくる。


「だめだよ紗江ちゃん......」


化粧が崩れないように優奈が咄嗟にハンカチで紗江の目元を押さえるが、当の優奈は真っ赤に泣きはらした目から大粒の涙をポロポロと零している。


「もう......いいのか?」

「はい......あっ、でも最後に三人で写真を撮りたいです。」


紗江はカバンから自分のスマホを取り出す。


「今更写真か?」


もしスマホを持って帰っても、暫くしたらバッテリー切れで見れなくなってしまうだろう。


「私がこの世で、私の目を通して見た物や感じた物を、後でこの写真を見た圭太殿にも感じてもらいたくて......寂しがり屋の圭太殿をもっと寂しくさせるために、この日の為に今まで仕込んでおいたのです。」


そう言って、優奈仕込みの悪い笑顔を俺に向けてきた。


「じゃあ、あたしが撮ってあげる!これでも自撮りは紗江ちゃんの師匠なんだから!」


紗江を真ん中にして、優奈が写真を撮る。

そのうちに優奈もスマホを取り出して紗江とのツーショットや、俺と紗江を並ばせての写真など、二人は暫く楽しそうに撮影会を行った。


「そうだ。紗江ちゃん、これ......私から。」


撮影会がひと段落すると、優奈が紗江に小さな包みを手渡した。


「開けてみても、良いですか?」

「うん。開けてみて。」


紗江が、その小さな包みを開けると、中からシルバーで出来たシンプルな細いネックレスが出てきた。


「わぁー綺麗!優奈さん有難うございます!」

「さっき紗江ちゃんに貰ったプレゼントの御返し。付けてあげるね。」


優奈にネックレスを付けて貰った紗江は嬉しそうに微笑んで優奈に抱き着くと、そのまま暫く二人で抱き合っていた。

そして、紗江が優奈から離れ、姿勢を改めると優奈に向かって深々と頭を下げる。


「優奈さん......今まで本当にお世話になりました。私、優奈さんの様な素敵なお姉さんが出来て本当に良かった!優奈さんの事はずっと忘れません。」

「私も、紗江ちゃんみたいに世界で一番可愛い妹が出来て嬉しいよ。これからもずっと私の妹だからっ......ね?」

「はい。それでは......」

「うん......紗江ちゃん......元気でね。」


ボロボロと涙を流しながら手を振る優奈に見送られて、俺と紗江は店を後にした。


店を出ると、灰色の空からチラチラと雪が降ってきている。

天気予報通り、これから雪になるのだろう。

転ばないように紗江の手を取って車に向かい、雪が本降りになる前に家に向けて車を走らせた。

紗江は、この時代の風景を目に焼き付けるように、ずっと黙って窓の外を見つめていた。



♢♢♢



午後12時半。


「もう行くのか?」


家に着いて車から降りた俺は紗江に尋ねる。

すぐ目の前、桜の老木の下であの祠が青白く光っているのが目に入る。


「いえ、まだお昼を食べていませんもの。圭太殿は私を飢え死にさせるおつもりですか?」


最後まで食い意地のはった奴だ。


「蕎麦でいいか?冷凍のだけど。」

「はい!紗江はお蕎麦が大好きです!」


俺達は家に入って昼食の蕎麦を作る。

市販のめんつゆをお湯で割って、冷凍の蕎麦を温めて、刻んだネギと生卵を乗せただけの、いつもと同じ簡単な昼食だ。


「「いただきます!」」


いつもと同じように俺の隣に座った紗江は、上品に美味しそうに蕎麦を食べ始めた。


「海老天、買ってくれば良かったですね。」

「そうだな。忘れてたな。」

「三人前の物を。」

「そしたら今度こそ俺が二本食べるからな。」

「それはどうですかね、結局私が二本食べる事になりますよ。」


いつもと変わらない会話をしながら昼食を摂り、洗い物を済ませると、紗江は一旦自室に戻ってから、またリビングに戻ってきて、イスに座って窓の外に降る雪を暫く眺めた後、リビングをぐるっと見渡して俺に向き直った。


「圭太殿......そろそろ参ります。」

「そうか......」


立ち上がって歩き出した紗江の後を追って、俺も玄関に向かう。


「紗江、忘れ物は無いか?忘れても取りに戻れないぞ。」


着物と同じ、水色の鼻緒の草履を履いた紗江は、俺に向き直って右手の甲を胸の前で掲げた。


「圭太殿に貰った指輪、優奈さんに貰ったネックレス、そして.......」


紗江は掲げた手の平を胸にそっと押し当てる。


「印刷した写真。全てちゃんと持っています。」


玄関を出ると、本降りになった雪が既に積もり始めていて、一面銀世界となっていた。


「春の桜、梅雨の雨、夏の太陽と海、秋の紅葉......そして最後に美しい雪景色。圭太殿と一緒に全ての季節を過ごせて、最後に素敵な景色を見られて良かった......」


白い息を昇らせながら紗江が呟いた。


「圭太殿。写真を撮りましょう!最後にこの大好きな庭からの雪景色を!」


そう言って紗江は懐からスマホを取り出すと、俺の横に並んだ。


カシャ!カシャ!カシャ!


俺の顔に頬をあわせるようにして紗江がシャッターを切る。

写真を撮り終わった紗江は、撮った写真を確認すると満足したように微笑んだ。

そして俺にスマホを差し出した。


「持って行かないのか?」


すぐに使えなくなるけど、それでもしばらくは写真を見られるだろう。


「はい......写真は既に一枚、一番大切な物を持っていますから......」


祠に向けて雪の中を歩き出した紗江に傘を差しかけながら、紗江の手を握って一緒に歩き出す。

積もった雪に刻まれていく紗江の足跡を消さないように、横に並んで。


「これで......これで戻れなかったら笑ってしまいますね。」

「優奈にネックレスを返さなきゃな。」


「そうなったら、今日の夕餉は豚の生姜焼きにしましょうか?」

「簡単だしな。シュークリームも買いに行かなきゃな。」

「フフッ!」

「ハハハッ」


お互い小さく笑いながら、あっという間に祠の前に着いた。

紗江は名残惜しそうにゆっくりと俺の手を離し、祠の前に立って俺に向き直る。

降り積もる雪の中でいつもと同じように微笑む紗江は、いつもよりずっと綺麗ではかなげだ。


「それでは圭太殿......今までお世話になりました。」


紗江は簡潔にそう言って深々と頭を下げる。


「紗江......」


そんな紗江を見ていると、俺は昨日から考えていた、言わないと決めていた言葉を口にしていた。


「紗江!俺、やっぱりお前と、お前と一緒に行―――」


紗江は、俺が最後まで言い切る前に真っすぐ俺を見て、笑顔のままゆっくりと首を左右に振った。


「嬉しい。......でも、圭太殿がいなくなれば今度はこちらの世で悲しむ人が出来てしまいます。圭太殿は圭太殿の時代で......私は私の時代で生を全うするのが筋でありましょう?」


「でも......」


「最後に......圭太殿がそこまで私の事を想ってくれている事が聞けただけで、それだけで私は幸せでございます。」


「......」


「それに、私が帰る時代はいずれこの時代に繋がって参ります。時は誰にでも平等に、ゆっくりと流れていきますもの。だから......いずれ圭太殿にもまた会えると信じています。私は......その時が来るのを今から楽しみにしているんです。」


いつの間にか大粒の涙を零しながらそう告げた紗江は、祠の中に手を伸ばして青く眩しい光を放つ石を手に取った。


すると、青い光が紗江の全身を包み込むように輝きだす。


「だから......圭太殿......さようならは言いません......またいずれ、この桜の下で......」


もう一度俺に向き直った紗江は、今までで一番の笑顔のまま大粒の涙をボロボロと流した。


「ああ、またな......紗江」


今の俺は上手く笑っているのだろうか―――

ちゃんと笑顔で見送ることが出来ているだろうか―――


すると、紗江が俺の胸に飛び込んできて、いつもの様に俺の首に両腕を絡ませてきた。俺は咄嗟に紗江を強く抱きしめる。


「圭太殿っ!」


次の瞬間、俺の唇に紗江の温かい唇が重なった―――


そして、唇を離した紗江が俺の耳元で小さく囁いた。


「圭太殿、大好き......大好きです......」


紗江を抱きしめた両手から温かく柔らかい感触が徐々に消えて行く。


「ああ、俺も......俺も紗江の事が大好きだ!」



俺に顔を向けて再び微笑んだ紗江。


そして、淡い光と共に雪の中に消えていった―――



♢♢♢



紗江の残光が雪の中に消えてたのを見つめていた俺は、雪の上に膝を付いて、行き場を失くした両腕を降り積もった雪の上に置いた。


紗江が最後に残した涙の跡が、降り積もる雪に少しづつ隠れていく。


最後まで紗江を笑顔にさせる事が出来ただろうか―――


俺は消えて行く紗江の涙を見つめたまま、耳の中に残った紗江の最後の言葉を思い出して、降り積もる雪の中でいつまでも一人泣いていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る