第35話 あれから

十二月十八日、金曜日。


朝起きると、昨日降っていた雪は止んでいて、部屋の窓から薄日が差し込んでいた。

ベットを抜け出し、何かを期待してリビングのドアを開けるが、薄暗いリビングに人の気配は無く、冬の寒々とした空気だけが俺を迎い入れた。


その後、一人で朝食を作り、食欲も余りない胃袋に無理やり流し込んでからコーヒーを淹れて、縁側に座ってタバコに火を付ける。

目の前には一面の銀世界が広がっているが、暖かい海からの南風と漸く顔を出した太陽によってすぐに溶けてしまうだろう。


庭に残っていたはずの紗江の足跡も、降り積もった雪にかき消されていた。


紗江のいない日常―――


紗江が現れたあの日までは当たり前だった一人での生活に、俺はこれからどうしていいのか分からずに、暫く縁側に座って見慣れない真っ白な景色を眺めていた。


♢♢♢


「そっか......紗江ちゃん、無事に帰れたんだね......」


午後になって雪も大分溶けたので、俺は車を出して、昨日も来た優奈の美容室を再び訪れていた。

優奈には、昨日の夜に紗江が帰った事を連絡しておいたけど、直接お礼と報告がしたくて、切りたくもない髪を優奈に切ってもらっている。


「紗江......ちゃんと帰れたのかな。」


俺の唯一の不安は、紗江が無事に元の時代に戻れたかという事だ。

元の時代に戻れる保証なんて何もない。俺が紗江について行こうとしたのも、例えどんな時代に飛ばされても最後まで紗江の事を見守っていたかったからだ。


「大丈夫よ、紗江ちゃんなら。私も気になって昨日紗江ちゃんに聞いたら、「大丈夫です!元の時代に戻れる予感がありますから!それに私は運が良いのです、もし仮に別の時代に飛ばされても、また圭太殿の様な優しい人に助けてもらいますから」って言ってたわよ!」


「そっか......」


そうだな。タイムスリップに巻き込まれたあいつの運が良いのか悪いのか分からないけど、いつも笑顔で前向きなあいつの事だから今頃?は家族と一緒に笑っているだろう。


「そうだよ。私は紗江ちゃんよりあんたの事がよっぽど心配だよ!何その腑抜けた顔は!紗江ちゃんが見たら指を指されて笑われるわよ!」


サシュ!


俺の前髪を必要以上に短く切った優奈が、呆れた様子で鏡越しに俺を見てくる。


俺は何気なく優奈が今している前掛けに目をやる。

昨日、紗江がお礼として優奈に渡した、ベージュに赤い紐の前掛け。

今朝、紗江の部屋を覗いたら、同じデザインのエプロンが俺へもお礼として置いてあった。

最近部屋で何かしている事が多かったけど、これを作っていたのだろう。


店内の壁に飾ってある大きなパネルに目をやると、初めてここで髪の毛を切って優奈に化粧をされた紗江が、写真の中で恥ずかしそうに微笑んでいる。


「そうだな」


髪を切り終わり優奈に礼を言って店を後にすると、自宅に向けて車を走らせる。

紗江専用になっていた助手席には、あいつのクッションやタオルケット、ダッシュボードの小物入れには食べかけのガムや飴が置いてある。


未だ身の周りのあちこちに色濃く残る紗江の姿。


だけど、俺はこれからも今まで通り過ごすしかない。

紗江が最後に言った言葉を思い出し、少し前向きになった俺はハンドルを強く握り締めた。



♢♢♢



冬が過ぎ、再び春がやってきた。


桜の老木が今年も綺麗な花を咲かせると、俺は紗江がまた突然現れるのではないかと、ときどき目をやってしまう。


俺の日常は変わらない。

だけど、今年は畑を大きくして、市街地の国道沿いにある農産物直売所で俺の作った野菜を販売することにした。

売上価格の数パーセントを払えば、俺の様な素人でも出店できる。

ただ、人様に買ってもらうには、去年の様な自己流だけではちゃんとした野菜を作るのは難しいと思ったので、山本の爺さんに色々教わりながら野菜を作り始めた。

爺さんがくたばる前に色々な知識や経験を吸収しようと俺なりに頑張っている。


春が過ぎて、蛍の飛び交う梅雨を迎え、そしてあっという間に夏になった。


今年の夏は大忙しだ。

朝早く起きて野菜を収穫し、袋詰めにして直売所に持っていって並べる。

家に戻って午前中は畑に出て、夕方にはまた直売所に行って売れ残りの商品を引き取って帰る。

余った野菜は自分だけでは消費出来ないので、優奈の所に押し付けるように置いてくることもあるが、売り切れる日も結構あった。

七月には久しぶりに自分で稼いだお金でシュークリームを買って食べた。

稼いだと言っても大した金額じゃないけど、久しぶりに自分で稼いだ金で食べたシュークリームは、紗江に食わせてやりたいほど美味いシュークリームだった。


八月の太陽が照り付ける午後、掃除の為に久しぶりに紗江の部屋に入った。

布団を片付けた以外は、未だに紗江が帰ったあの日のままにしてある。

自分の女々しさに自分が情けなくなってくるが、気持ちの整理が着くまでは自然に任せようと諦めている。


ドレッサーの上には俺のジャージが畳まれて置いてあり、『3-B 吉野』と書かれた名札の隅に小さく”さえ”と書いてある。

白い洋服タンスの上には、今でもツバの大きな麦わら帽子と、写真立てが置いてあり、白いワンピースを着て、頭にかぶった麦わら帽子が風で飛ばないように片手で押さえている紗江の笑顔と、驚いた顔の間抜けな俺が写真に納まっている。


縁側からは、今年も咲いた向日葵と青い海、そして入道雲が見える。

ただ一つ、紗江だけが居ない去年と同じ夏の光景だ。


紗江も同じ写真を見て毎年夏を過ごしたのだろうか―――


♢♢♢


俺の気持ちとは関係なく時間はゆっくりと、確実に過ぎて行き、季節は秋から冬へと変わっていった。


俺の二十七歳の誕生日には優奈がケーキを焼いて持ってきてくれたので、一月十日の優奈の誕生日には、俺がケーキを持って行って優奈の二十七歳の誕生日を祝ってやった。


紗江がいなくなってからの優奈は、前ほど頻繁ではないけど、それでも月に一~二回は家に顔を出して世間話をして帰っていく。

話の流れで紗江の話題が出る事もあれば出ない事もある。

そして、最近優奈は高校や専門学校時代の友達の伝手で、頻繁に合コンに顔を出したり、男を紹介してくれるようにお願いしているらしい。


「来年の誕生日は彼氏と過ごしてるかも知れないから、圭太の出番はないかもね~」


そう言ってケーキをパクつく優奈に苦笑しながら、雪の降らない冬も過ぎていった。



♢♢♢



『夢』


子供の頃から俺が一番嫌いだった言葉。

夢を持てない俺が初めて持った穂香との小さな夢も消えた俺は、もう二度と夢なんて見ないと思っていた。


だけど今の俺には一つの夢がある。


紗江が最後に言った言葉。


またいずれ、この桜の下で―――


その夢が必ず叶うとは思っていない。

その夢を叶える為にどうしたらいいかも分からない。

こんな非現実的な夢を持っているのは世界でも俺くらいかも知れない。


俺は紗江と出会って何か変われただろうか?

紗江には色々な事を教えてもらったけど、俺はそれを生かせているだろうか?

自分の事が自分では分からない。変われたような気もするし、変わってない気もする。


だけど、そんな夢がいつか叶う事を願って、その時は紗江に笑われないように、今の自分が出来る事を、自分なりに頑張って毎日を過ごしている。



♢♢♢



季節は巡り、今年も春が来た―――


今日は三月三十日。


今年は畑の面積を二倍、紗江が居た二年前から比べたら三倍の広さにして、もっと多くの野菜を作る予定だ。

生活の掛かっていない俺の農作業なんて、本職の農家さんから見ればままごとみたいなものだろう。

ただ、自分が出来ると思った範囲でチャレンジしようとしているだけだ。


俺は朝からプチ子と一緒に休眠していた畑を耕していた。

此処まで畑が広いとプチ子では時間が掛かりすぎるので、来年からはプチ子にはゆっくり休んでもらって、少し大きい新しい耕うん機を買う計画を立てている。

その為の資金は、育てた野菜を売って稼ぐ予定だ。


「くぅ~、疲れた。」


大きく伸びをして疲れた体をほぐしながら目の前の景色に目をやると、夕日に照らされた海が茜色に染まろうとしている。時計を見ると午後四時になろうとしていた。


「今日はここまでにしておくか。」


まだ半分しか耕せてないけど、頑張れば明日中には終わるだろう。

俺はプチ子を押して、桜の老木の横にある水道に向かった。


(プチ子を洗ってから洗濯物を取り込んで......今日の夕飯はどうするかな。)


歩きながらそんな事を考えつつ、桜の老木が今年も七分咲きの枝を広げているのが見えたその時。


桜の木の下に小柄な人影があるのが目に入った。



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