第36話 八文字だけの手紙

七分咲きの桜の木の下、小柄な人影が目に入った瞬間に思ってしまう。


二年前に紗江が現れた時と同じ桜の季節に、同じ桜の木の下。



紗江!?―――



俺が恐る恐る近づくと、向こうも俺の姿に気が付いたようで、地面に座ったままペコッと頭を下げてきた。


真新しいカーキの登山帽に、赤と黒のタータンチェックのネルシャツ。

オレンジ色の大きなバックパックを背負い、手にはストックを握っていて、腰に巻いたアウターの下は紫のパンツに黒いスポーツタイツと、これまた真新しい登山靴を履いていた。


少し暗くなってきてはっきりとは分からないが、若い女性のようだ。

ただ、地面に座っているのを見ると何かあったらしい。

一瞬、紗江だと思った俺は、その登山客らしい女性の姿を見て少しがっかりしたが、そんな事がある訳ないと思い直して、近づきながら声を掛けた。


「どうしました?」


すると、その女性は登山帽を取ると、再び俺に頭を下げてきた。

多分二十代前半、登山帽から濡れたようなつややかなセミロングの黒髪が流れ出す。

透けるような白い肌に黒髪と同じ色をした大きな瞳。

シャープな顎のラインの先にはピンク色の小ぶりな唇。


「勝手に敷地に入っちゃって済みません。桜が綺麗で......つい見とれてたら、転んじゃって......少し足を痛めたみたいで。」


そう言ってその女性は座ったまま自分の右足首に視線を移して手で押さえた。

その女性の、アイツにそっくりな容姿に目を奪われていた俺は、彼女の言葉で我に返った。


「あ、あぁ、そうですか......大丈夫?立てますか?」

「はい、大丈夫です。立て......ます。」


彼女は、ヨイショ!と掛け声を掛けてストックを杖に立ち上がり、そろりと一歩踏み出すと、整った顔を苦痛で歪めた。

もしかしたら捻挫くらいはしてるのかも知れない。こんな状態じゃ一番近いバス停まで歩けないだろうし、もうすぐ最終バスも出てしまう時間だ。


「こんな状態じゃ歩いて帰れないと思いますよ。もし良かったら車で駅まで送りましょうか?......あっ、タクシーを呼びます?少し高くなるかも知れませんが。それか救急車を......」


彼女は少し考える素振りを見せてから、じゃあ、すみませんがタクシーを呼んで頂けますか?と答えてきた。


当然知らない男の車に乗るより、タクシーの方が安全だろう。

だけど、タクシーを呼んでも、最低でもここまでは三十分くらいは掛かるので、それまでここにずっと座らせておくわけにもいかない。


「じゃあ、少し時間が掛かると思うんであそこに座って待っていてください。あそこの縁側まで歩けます?」


俺が十メートル程離れた縁側を指さすと、彼女は、はい。と返事をして歩き出すが、やっぱり少し痛いらしく、俺は彼女の腕を支えながら縁側まで連れてきて座らせた。


「申し訳ありません、いきなりこんなご迷惑を掛けてしまって......」


縁側に腰を下ろした彼女はそう言ってまたペコリと頭を下げた。

その姿にアイツの面影が重なって、俺は不覚にもドキリとしてしまった。


「じゃあ、タクシー呼ぶから待ってて下さい。」


俺は逃げるように縁側から家の中に入ると、死んだ爺さんが紙に書いて貼ってあったタクシー会社に家電から電話を掛けた。



♢♢♢



「これ、もし良ければ。」


俺がペットボトルのお茶を差し出すと、遠慮がちにお礼を言った彼女はウェストポーチから財布を取り出した。


「いや、お金は要らないから。どうぞ。」

「......ありがとうございます。じゃあ......遠慮せずに頂きます。」


そう言ってお茶を一口飲んだ彼女は、フゥーと大きくため息を付いてリラックスした表情を浮かべた。だけど、そんな彼女に残念なお知らせをしなければならない。


「タクシー会社に電話したんだけど、生憎車が全部出払っちゃってて、早くても一時間は掛かるらしいんだ。悪いね。」

「......そうですか。でも仕方ないですね。すみませんお手間を掛けさせてしまって。」


彼女はそう言ってから顔を上げて、夕日に照らされた目の前の景色に目を移した。


「それにしても綺麗な景色ですね。毎日こんな景色が見られるなんてうらやましいです。」

「いや、毎日見てると飽きるもんですよ。」

「そうなんですか?」


俺は自分のお茶を一口飲んでから、彼女に目を移す。

今日は暖かかったからか、彼女はシャツの第二ボタンまで外していて、グレーのアンダーシャツがつい見えてしまった。

俺が慌てて目を逸らそうとした時、彼女のアンダーシャツの上で何か光るものが目に入った。


「あっ......」

俺の視線に気づいた彼女は小さく声を出して慌てて胸元を手で押さえた。


「いやっ、違うんだ、その、ネックレス?かな。それがちょっと気になって......」

「えっ、ああ......このネックレスですか?」


何が違うのか自分でも分からないが、彼女は少しホッとした表情を浮かべる。


「そう、何となく気になって......もし良かったら少し見せてくれないかな?」


会ったばかりの男にネックレスを見せてくれなんて言われても、怪しさ満点だろう。

彼女の胸元を見ていたバツの悪さから思わず口に出してしまったその言葉に、彼女は「良いですよ」と言って首の後ろに手を回してネックレスを外すと、俺に手渡してきた。


「あぁ......ありがとう。」


見せてくれるどころか、渡してくれるとは思わなかったので、ちょっとビックリしつつも、そのネックレスを見た瞬間、俺は動きを止めてしまった。


少し年季の入った細いシルバーのシンプルなネックレス。

そのネックレスにはプラチナで出来たシンプルなデザインの指輪が通してあって、その指輪には淡いブルーの小さな宝石がいくつか並んで付いていた。


「そのリングとネックレス、不思議な話があるんです。もともとは私のおばあちゃんのひいおばあちゃんの物だったって言われているんですけど、その人って江戸時代の人だったらしいんです。娘が生まれて十七歳になった誕生日に代々受け継がれていて、私も五年前の十七歳の誕生日に母に貰ったんです。」


「へぇー、その割には......失礼だけど、今でもその辺の、横浜辺りのデパートで売っていそうなデザインだね。」


「ねっ!ですよね?だって内側を見てくださいよ。”pt900”って刻印があるんですよ。江戸時代にそんな訳ないですよね。その宝石もパライバトルマリンだからそんな昔からある宝石じゃないですし。だから本当はおばあちゃんが若い頃買ったんじゃないかと思ってるんです......だけど凄く気に入ってるんでいつも身につけているんです。」


俺は彼女に言われた通り指輪の内側を覗き込んでみる。

すると、”pt900”の刻印とは別に八文字の刻印が目に入った。

それを目にした俺は思わず笑みを浮かべてしまった。


「でも、内側に彫ってある”sae”って、確かにそのご先祖様の名前らしいんです。もう一つ彫ってある”keita”って言うのは誰の名前か分からないんですけど。」


「そうなんだ。でも......夢があっていい話だね。」


俺は彼女にお礼を言ってネックレスを返すと、彼女は丁寧にネックレスを付け、お茶を一口飲んでからまた景色に目を移した。


「でも本当に綺麗な景色ですねー。何か落ち着くっていうか、懐かしいような気がします。」


「そっか......」


「私、この前女子高生が登山するアニメを見て、急に登山がしたくなったんです。でも友達は誰も興味がなくて......仕方なく一人で道具を揃えて、今日が初めての登山だったんですけど、帰り道を間違えたみたいで気が付いたらここに居たんです。」


初対面の男の前でいきなり身の上話をペラペラ喋り出した彼女を見て、興奮すると話が止まらないアイツにそっくりだと思いながら俺は黙って彼女の話を聞いていた。


「大変だったな。でも山は危ないから、これからは気を付けた方がいいぞ。」

「そうですね。今後は気を付けます。」


「ところで、そのご先祖様、”さえ”って人だけど......どんな人だったか聞いてる?俺、ちょっと昔の人の生活に興味があって。」


「"さえ"さんですか?う~ん、どんな人だったかはあんまり......何か、もともと武士の娘で江戸時代の終わりくらいの人らしいんですけど......あっ!水無瀬洋菓子店って知ってます?明治時代から続く洋菓子の老舗なんですけど、そこって”さえ”さんが開いたお店らしいです。初めは東京にあったらしいんですけど、たしか今は横浜で営業しているはずですよ。」


「水無瀬洋菓子店か......今度行ってみようかな。」

「シュークリームが美味しいって有名ですよ。」


シュークリームか......アイツの食い意地は筋金入りだな。


そうするうち、いつの間にか大分話し込んでいたようで、時計を見ると既に三十分以上経っていた。


「タクシー遅いな。もう一回電話してくるよ。」


タクシーが来るまで最低でも後三十分は掛かると思うけど、確認の為にもう一度電話しようと俺が立ち上がると、彼女は恐る恐る口を開いて俺を呼び止めた。


「あ、あの......ほんとに勝手なんですけど......もし時間が掛かるなら、あの、申し訳ないんですけど、ご迷惑でなければ車で送って貰う事、出来ますか?」


知らない男の車に乗るのは怖いだろうと思って気を利かせてやったのに、無鉄砲というか、度胸がいいというか、そう言う所も似ている。


「別に送っても良いけど、いいのか?」


「本当ですか!ありがとうございます。これ以上ここに居座ったらご迷惑でしょうし......」


俺はタクシー会社にキャンセルの連絡を入れると、車を縁側の前に移動させてから彼女を助手席に座らせた。

どうやら足の怪我は思ったほど重症ではないらしく、だいぶ痛みも引いているようで自分で車に乗り込んできた。


「シートベルトした?」

「あっ、はい。宜しくお願いします。」


俺が車をUターンさせていると、彼女はまた喋り始めた。

身の危険を感じた時、黙っているのは良くないとでも思っているのだろう。


「そうだ、お礼をしたいので連絡先教えて貰っていいですか?」

「いや、別にお礼なんていいよ。」

「そう言う訳にはいきませんよ。あっ!そう言えばお名前も聞いてませんでした。」

「あぁ......吉野......吉野圭太です。」


車をUターンさせ終わり、自分の名前を名乗ると、敷地の出口に向けてゆっくりとアクセルを踏んだ。


「吉野、圭太さん......ケイタって、このリングに彫られている名前と一緒ですね!」

「そう言えば、そうだな。」


車は今もひっそりと置かれている祠にゆっくりと近づいて行く。


「凄い偶然ですね!びっくりしました!だって、あっ!私も名前言ってなかったですね。すみません。私の名前って、例のご先祖様と一緒なんです。私の名前は、綾瀬―――」


そして、例の祠の前まで来た時―――


車のライトに照らされた七分咲きの桜の木の下。


白いワンピースに麦わら帽子を被った紗江が、満面の笑みを浮かべながら、俺に向かって高く掲げた両手をブンブン振っているのが一瞬目に入った。


その姿を見て、俺は思う。


夢を見る事も悪いもんじゃないな、と。




(紗江......良かった。な。)




夕日を反射する春の海を見ながら、名前のに興奮して一人喋り続けるを乗せて、俺はゆっくりと山道を下って行った。





――― 完 ―――






___________________________________________________________________________


あとがき


最後までお読み頂き本当に有難うございます。

星を入れて頂いた方、応援して頂いた方、コメントをしてくれた方、一話でも読んで頂いた方には本当に感謝です。


最後の四話辺りを始めに思いついて、それを基に組み立てた本作。

コメディーの部分が上手く書けなくて途中で挫折しそうになりましたが、一人でも応援してくれる方がいるのであればと、途中を大幅に端折りながらも、何とか最後まで書き切る事が出来ました。

PV数は処女作でもある前作「ある男の話」に比べて圧倒的に少ないのですが、勢いで書いた前作より、苦労して完結できた今作の方が作者としては愛着があります。


そして温かいコメント付きで応援してくれた方、コメント無しでも毎回応援してくれた方、本当にありがとうございます。

この作品は毎話応援してくれた方と一緒に作った作品だと勝手に思っています。


また、紗江のその後については、下書きとして書き終わっているのですが、大して面白い話でもないので、公開するかどうか迷っています。

もう少し上手く話しを組み立てられたらいずれ公開するかも知れません。


あとがきが長くなりましたが、最後までお読み頂き有難うございました。


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