第17話 紗江のいる日常
―――午前五時半―――
スマホのアラームで目を覚ましてベットから抜け出す。
部屋を出るといつもの様にリビングの方から微かに笑い声が聞こえてきた。
トイレに行ってから笑い声が聞こえてくるリビングのドアを開くと、薄暗い早朝のリビングにテレビの光だけが眩しく輝いていて、俺のジャージを着た紗江が正座で画面に見入っていた。
「ふっ......ふふふっ!その様な......ファ、あはっ、アハハッツ!!」
「お早う......」
「あっ!お早う御座います。......あははっ!」
画面に集中したまま俺に一切目を向けず、口だけで挨拶を返してくる紗江に、心の中で溜息をつきつつ薄暗いリビングに光を入れる為カーテンを開け放った。
「紗江、暗い所でテレビを見たら目を悪くするって昨日も言っただろう!」
「ふぁは!......圭太殿、相済みませぬ。アハハ!」
今日はたぶん五月二十六日だ。
紗江が俺んちに居ついてから既に二ヶ月近くが経っていた。
そして俺が紗江にテレビの存在を教えた一か月ほど前から毎朝繰り返されている光景に、俺は再びため息をついた。
最近の紗江の日課、それは早朝に放送されている時代劇の再放送、「暴れん坊主将軍」を見る事だ。
毎朝紗江が爆笑しているのを見て、何がそんなに面白いのかと思って俺も一回だけ一緒に見たけど、特に変わった事も無い普通の時代劇だった。
紗江的に何か爆笑ポイントがあるのだろうけど、俺にはさっぱり分からない。
そんな紗江を尻目に、洗顔を済ませて朝食の準備をしていると、テレビを見終わった紗江も途中から朝食の準備を手伝い始める。
そして紗江と二人で朝食を摂り、雨の日以外は俺は畑へ、紗江は洗濯と掃除、その後は午前中いっぱい祠の前で色々試したりしている。
♢♢♢
―――正午―――
俺は昼食の冷たい蕎麦を挟んで紗江と対峙している。
「圭太殿はもうすでにお食べになられたではありませぬか!」
「紗江だって一本食べただろ?三人前を選んだ紗江が悪いな。」
「天ぷらが食べたいって言ったのは紗江です!だから最後の一本は紗江のです!」
「金を出したのは俺だ。当然最後の一本は俺のだろう?」
「くっ......年長者である圭太殿が紗江に譲るべきです!」
「年長者を敬えって教わらなかったか?」
そう、俺と紗江が対峙している理由は蕎麦本体ではなく、昨日スーパーで買った海老の天ぷら。三本あった内の残りの一本をどっちが食べるかと言う事だ。
だけどこうやって言い争っていても埒が明かない。
ここはやっぱりアレで決着をつけるべきだろう。
「分かった。じゃあやっぱりここは公平にジャン―――」
「嫌です!」
こんな時に日本全国で行われるであろう公平な勝負を提案しようとした瞬間、紗江が首をぶんぶん振って拒否する。
「じゃんけんなる遊び、紗江はこの世に来るまで知りませんでした。したがって圭太殿に利のある勝負には乗る訳には参りませぬ。」
「今の時代、こういう時はジャンケンって決まってるんだよ!」
刻一刻と冷めて行く海老天を前に膠着状態が続くと思われたその時、紗江が一つの提案をした。
「これでは海老が冷めてしまいます。そうなってしまえばどちらが食べたとしても二人とも負けたも同然でありましょう?」
「まあ、そうだな。」
「であれば、ここは仲良く半分こにしましょう。」
「しょうがない。それが一番丸く収まるな。」
「であれば。」
紗江はそう言うと、海老天が乗った皿を手にキッチンに向かう。
俺は紗江が海老天を食べないか、紗江の動きを注意して見ていたが、紗江は普通にナイフを手に取って食卓に戻ってきた。
「それでは紗江が等しく切り分けます。」
紗江は右手に持った箸で海老を押さえつつ、左手に持ったナイフをゆっくりと下ろした。
サクッ!
「あっ!」
その瞬間、綺麗に二等分された海老天の片割れを紗江の箸が持ち上げ、紗江の手元ににある天つゆに運ばれていき、七割方が尻尾で構成された海老天がポツンと皿に残された。
「さあ、丁度半分です。圭太殿もどうぞお召し上がりください。」
全て身の部分で構成された海老天を天つゆから上げて口に運んだ紗江は、ニッコリと微笑んで言った。
♢♢♢
―――午後三時―――
朝の天気予報では今日は一日中晴天が続き、最高気温も二十六度。夏日になると言っていた。
体感温度は三十度を超えているであろう炎天下で、俺は午後から畑の草むしりをしていた。
ゴールデンウィークに買って来て植えた野菜の苗たち。
トマト、キュウリ、ナス、オクラ、ししとう、トウモロコシ、スイカ。
ここ数日は気温も高く、今の所は順調に育っていて、トマトやキュウリにはすでに小さい実が付き始めている。
海老天の悔しさを畑仕事にぶつけたくても、小さな雑草をチマチマ抜いているだけなので余計にストレスか溜まりそうだ。
(ハァー、今日はもう止めるか。)
そう考えて、草むしりを止めようと立ち上がった時、敷地に一台の白い軽自動車が入ってきて玄関の前で止まった。
「やっほー、圭太!」
そう言って車から降りてきたのは大きな紙袋を持った優奈だ。
「お前、仕事は?」
「今日は定休日。あんたとうとう曜日も分からなくなっちゃったの?」
言われなくても大分前から曜日が分からなくなってきてるので何も言い返せない。
「ところで紗江ちゃん居る?」
「紗江?中にいるぞ。」
「オッケー!上がらせてもらうね~」
優奈はひらひらと手を振りつつ、大きな紙袋を抱えたまま家の中に入って行った。
最近、優奈はよく俺ん家に来るようになった。
こっちに戻って来てから紗江を美容院に連れて行くまでは、半年で二、三回くらいしか来たことが無いのに、あの日以来週に一、二回は来るようになった。
紗江と余程気が合ったのだろう。
紗江もずっと俺と顔を突き合わせているより、同性の優奈と話しが出来るのは楽しいだろうと思って好きにさせているのだけど、どこかで紗江の事情がバレないかという不安は残っている。
(いっその事優奈にも―――)
一瞬そんな考えが頭をよぎるけど慌てて否定した。
紗江が早く元の時代に戻るためには相談できる人間が一人でも多いに越したことは無いだろうけど、たった一人とは言え他人に知られるのは危険かも知れない。
タイムスリップなんて優奈が信じるか分からないしな。
(でも、もう少し考えて紗江にも相談してからだな)
♢♢♢
―――午後四時―――
シャワーを浴びた後、俺は縁側に座って麦茶を飲みながら煙草を吸っている。
優奈が来てから一時間くらい経ったが、二人で部屋に籠って何をしているのか、ときどき紗江の部屋から笑い声が聞こえてくる。
最近の紗江は優奈に感化されたのか、テレビの影響かは分からないけど、言葉遣いが汚くなってきているのが心配だ。
そんな事をボッーっと考えていると、紗江の部屋の扉が開く音がして賑やかな話声がこっちに近づいてきた。
「ねぇねぇ、圭太―――って、あっ、あんた何て格好してるのよ!!」
いきなり大声を上げた優奈に驚いて、自分の姿を確認するが、Tシャツにトランクスと言った姿で特に変わった所はないはずだ。暑さにやられたおいなりさんが少しトランクスからはみ出しているのはご愛敬だ。
「何かおかしいか?」
「おかしいか?じゃないわよ!私がっ、お客が来てるのに......なっ、何でパンツ一丁で寛いでるのよ!」
ここは俺の家だ。自分ちでどんな格好をしようと俺の自由だ。
こんなに暑い日はボクサーパンツじゃなく、トランクスで股間に風を感じながら縁側で涼む。それが昔からの俺の流儀だ。
真っ赤になって俺から目を逸らして怒鳴り散らす優奈の事情なんか知ったこっちゃない。
「客扱いしてほしかったら手土産の一つでも持ってくるんだな。第一、俺がお前ん所に行っても、いつも「あぁ、圭太か」だろ?まずはお前が俺をちゃんと客扱いしろよ。」
「バッカじゃないの!私はまだしも、紗江ちゃんにそんな恰好見せるなんて、はっ、犯罪よ!ねぇ紗江ちゃん、紗江ちゃんもちゃんと言った方が良いわよ!」
怒り出した優奈に驚いた顔をしてた紗江は、いきなり自分に話を振られて、何て言っていいか戸惑った様子で俺を見てきた。
そして、俺と視線があった途端、目を泳がせて、優奈とは違う意味で俺から視線を逸らす。
「そっ、そうです......ね。優奈さんの言う通り......ちゃんと着た方が......」
紗江の奴
最近暑い日が多くなってきたので、紗江の前でこうして縁側で涼んでる事も何度かあったけど、「御府内でも暑い日には多くの男衆が褌のみで出歩いているので大丈夫です」とか言って全然気にしてなかったくせに!
「はいはい、それじゃあズボンを履いて来ますかね。」
ただ、紗江が優奈の前で日和った理由も何となく分かったので、俺は素直に自分の部屋に戻ってズボンを履いてからリビングに戻った。
「全く......四の五の言わず初めからそうしてれば良いのよ。......へ、変なもの見せられたこっちが迷惑よ!」
リビングに戻った俺を見て、未だに赤い顔で文句を言ってくる優奈。
そんなに怒るんだったら早く帰って欲しい。
「で、何の話だっけ?」
俺のくつろぎ時間を邪魔してまで声を掛けてきた理由を優奈に聞く。
「そうそう、紗江ちゃんと話してたんだけど、これからペトリコールにケーキ買いに行かない?」
ペトリコール。
紗江の髪を切った時にシュークリームを買いに行ったケーキ屋だ。
あれから事あるごとにペトリコールのシュークリームを欲しがる紗江に押し切られて、ゴールデンウィーク前に連れて行ったのが失敗だった。
紗江はショーケースに並ぶ色とりどりのケーキに目を奪われ、一口食べて虜になっていた。
「まぁ、良いんじゃないか?紗江良かったな。優奈が奢ってくれるってよ。」
俺がそう言うと、紗江と優奈はお互い顔を見合わせてニヤッと笑った。
これは何か嫌な予感がする。
「そういえば、今日は優奈さんにいっぱい服をもらったんです。」
「そうか、悪いな。ありがとう優奈。」
「いいのよ~、私にはデザインが若すぎてもう着ないものだし、それに私ってちっちゃいでしょ?」
優奈いう通り彼女の身長は小さい。
紗江よりは少し高いけど、確か自己申告で百五十三センチだったはずだ。
「紗江ちゃんならちっちゃい私の服でも着られると思って。」
「そうです。いろいろちいさい私でも着られる服をいっぱい頂きました。」
「圭太が紗江ちゃんの事を「いろいろちいさい」って言ってたから大丈夫だと思ったけど良かった!」
「はい。有難うございます。圭太が私の事を”いろいろ小さい”と言った”いろいろ”の意味が良く分かりませんが。」
「そうだったね、私に紗江ちゃんを紹介した時、「いろいろ小さいけど高校生」って言ってたわよね。」
「そうですね。圭太、......私の小さいいろいろとは何のことです?」
その後、B組の紗江とD組の優奈に拉致された俺が、ケーキを買わされる羽目になった事は言うまでもない。
♢♢♢
―――午後六時―――
ケーキを買わされた後、今日の夕飯は紗江と優奈が作ってくれることになったので、少しだけ食材を買ってから家に帰って来た。
「優奈、お前せっかく自分の家の近くまで戻ったんだから、家に帰って飯を食えば良かったじゃねーか。」
「まあまあ、いいじゃない。ケーキのお礼にこうして私の手料理を食べさせてあげるんだから。」
「材料費は俺持ちだけどな。」
「細かい事を気にしないの!そんなんだから圭太はもてないのよ。あ、紗江ちゃん、お鍋の火を少し弱めて。」
俺を軽くディスりつつ、手際よく料理を作る二人。
暫くすると、三人分のパスタとミネストローネがテーブルに並んだ。
「「頂きます!」」
「頂きます......」
心の中で、ペペロンチーノの方が良かったな。と思いつつ、毒々しい色をしたジェノベーゼを口に運ぶが、見た目に反して意外とうまい。
「これ......うまいな。」
「本当。美味しいです!」
「でしょ?食わず嫌いの圭太はこんな機会でもないと食べないと思って。パスタだけじゃなくて、サラダにかけたり、お肉のソースにしてもいけるよ。多めに作っておいたから後で冷凍しておいて。」
そういって得意げな顔をする優奈。
まあ、料理のレパートリーが増えるのは良い事だろう。
少しだけ優奈に感謝しようとして、ケーキを奢らされた事を思い出して止めた。
♢♢♢
―――午後九時―――
「じゃあ、紗江ちゃんまたね!」
「はい、優奈さんご馳走様でした!お気を付けて!」
食後、俺が買ってあげたケーキを三人で食べながら暫く雑談をした後、俺は家に帰る優奈を車まで送る。
「今日はありがとな。紗江も毎日俺とだけじゃ退屈だろうから、優奈が相手をしてくれて助かる。」
「何?急に。圭太が私にそんな改まってお礼を言うなんて。ちょっと気持ち悪いんだけど?」
「まったく......せっかくお礼を言ってんだからこんな時くらい素直に聞いとけ。」
「うん。そうだね......」
そう言うと、優奈は数秒沈黙する。
「圭太......あのね?」
「ん?」
「私......あの、圭太に......」
「何だ?」
暗くて顔色までは分からないが、俯いて小さな声でボソボソと喋る優奈の声が聞き取りずらい。
「......やっぱいい、何でもない。」
「何だよ、気持ちわりーな。」
何かを言いかけた優奈はそれっきり何も言わずに自分の車に乗り込んだ。
「じゃあね、圭太。ケーキご馳走様。」
「あぁ、気を付けて帰れよ。」
優奈は軽く手を振って車を出した。
俺は暗闇に光るテールランプが敷地を出たところまで見届けてから踵を返す。
(優奈の奴、言いかけて止めるなんてあいつらしくねーな)
いつもと違う優奈の様子が少し気になりつつも、俺は紗江が今頃別のデザートに手を付けているんじゃないかと気になってきた。
(紗江の奴、あればあるだけバクバク食っちまうからな)
紗江が居ついてから、静かで単調だった俺の生活も毎日が騒がしくなっていた。
ただ、前の様な静かな生活を望みつつも紗江のいる日常に慣れていき、そしていつの間にかそんな生活も悪くないと思っている自分が居るのも事実だ。
「紗江ー!さっきケーキ食べたのに他のデザートに手を出してないだろうな!」
玄関を開けて、家の中にいる紗江に大声で注意すると、リビングの方からドタバタと慌てたような物音が聞こえてきた。
どうやら俺の予想が当ったようだ。
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