第1話 出会い

長閑のどかな景色が広がる山間にウグイスの鳴き声が響き渡る。


俺の眼下には霞みがかった街並みが、遠く朝日を反射して煌めく海まで続き、江ノ島の向こうには三浦半島の黒いシルエットが浮かんでいる。


「フゥーー」


見慣れた景色を見ながら最後の一服を終えると、咥えていたタバコを捨てて足でもみ消す。


「......」


(やっぱ、自分の敷地とは言えポイ捨ては良くないな......)

吸い殻を拾い、携帯灰皿に入れると改めて気合を入れ直す。


「よし、やるか......」


今日から始まる戦いも、こいつとならどこまでだって行けるだろう!

俺の目の前には、真っ赤な機体と狂暴な漆黒の牙を朝日に反射した相棒が、その出番を待ちわびていた。


俺は相棒のハンドルにある運転スイッチを『停止』から『運転』に切り替え、チョークを引く。

ガソリンも満タン、出撃の準備は完了だ。

始動グリップを素早く引くと、最大2.2ps/7,000rpmを発揮する空冷4ストローク単気筒OHV 50ccエンジンが眠りから覚め、狂暴な咆哮を奏で始める。


ブッ、ブロロロロローー


だが、まだだ。まだ慌てる時間じゃない!

相棒が本領を発揮するその瞬間。その時が来るまで俺は相棒の咆哮に耳を澄ませる。


しばらくすると、相棒の咆哮が徐々に高まりを含み始めた音色に変わってくる。

「よし、行けるか......」

ゆっくりとチョークを戻すと、高ぶっていたその咆哮は俄かに落ち着きを取り戻す。

「さあ相棒、行こうぜ!」

俺は相棒の後ろに回り、スロットルを静かに握った。



ドドドドドドド―――


「いや~、楽だわ!」


昨日まで鍬1本でヘトヘトになりながら悪戦苦闘していた地面が、相棒のローターによってあっという間に耕かされていく。

大金を叩いて耕うん機を買ってよかったー。

機体の上部にでっかく『プチ』と書いたシールが貼ってあるけど俺は気にしない。

初心者の俺には十分頼もしい相棒だ。


昨日の夜に動画サイトで何回も使い方を見て勉強した通りに一度に深く耕やそうとしないで、同じ所を何回か往復して徐々に耕していく。


「ヒャッハー!ミミズ共!死にたくなければ道を空けろ!」


俺は世紀末の悪役雑魚キャラのようなセリフを大声で喚きながら、一人ハイなテンションで耕うん機を操っていた。



去年の夏、穂香と別れた俺は会社を辞めて県の中西部にある実家に引っ越してきた。

半径500m以内には人家がなく、都心まで続く私鉄の駅がある市の中心までは車で20分程掛かる山の中にポツンと立つ一軒家。

一体どこまでが敷地なのか、俺もよく分からない程の広さがある。


俺が母親に連れられ、母親の実家であるこの家に移り住み、じいちゃん、ばあちゃんと一緒に4人で暮らし始めたのは幼稚園に上がる前の事だったらしい。

そして小学校2年の時にばあちゃんが、中学1年の時に母が亡くなり、それから大学に行くまでじいちゃんと二人で暮らした家だ。


俺が大学生になりこの家を出ても、じいちゃんは一人でここに住んでいたが、去年の夏、ちょうど穂香と別れるひと月ほど前に息を引き取った。

俺が穂香の変化に気づくのが遅れたのも、じいちゃんが亡くなった事で色々大変な時期だったせいでもあるかもしれない。


穂香に振られ、ちっぽけな夢も消えた俺がなぜ仕事まで辞めてこんな山の中に引っ越してきたのか。

たかが女に振られたくらいで。俺もそう思う。

だけど、元々仕事が好きで入った会社じゃなかったし、東京で何か新しい目標があったわけでも無かった。ただ、全てが嫌になって逃げて帰っただけだ。


そして、それを可能にしてくれたのはじいちゃんの遺産だった。

元々地主で、市内に広大な敷地を持っていたじいちゃんは土地を少しづつ売ったり、マンションやアパートを建てたりして、亡くなった時でも相当の資産があった。

じいちゃんのたった一人の身内である俺は、相続税を払う為にいくつかのアパートは売ってしまったけど、それでも贅沢さえしなければ一生働かなくても良い位の資産が手元に転がってきた。


俺はボロだった母屋の水回りと居間、そして高校卒業まで俺の部屋だった8畳の和室をリフォームして、11月に引っ越してきた。

それからは毎日ボーっと遠くの街並みや江ノ島や海を眺め、ネットをして、眠くなったら寝るという夢のようなふざけた生活を送っていた。


毎日の様に思い出していた穂香のことも、徐々に思い出になってきている。


ただ、そんな生活も三ヶ月も続くといい加減飽きてくる。

そんな2月のある日、縁側でコーヒーを飲みつつ庭を眺めていると、目の前の畑が目についた。

昔、じいちゃんとばあちゃんが色々な野菜を育てていた畑。

100坪程の家庭菜園程度の広さの畑が、枯れた雑草に埋もれていた。


(畑でもやってみるかな......)


ただ、ダラダラしてる生活にも飽きてきたし、何か少しでも初めてみるのも悪くないかもしれない。

本格的にやるには経験も知識もない俺だけど、家庭菜園くらいなら出来るかもしれない。

それから毎日少しづつ、本棚に残っていた野菜作りの本やネットで家庭菜園の方法を調べ始めて、三月末になった先日、仕入れた知識を実践すべく納屋にあった鍬を手に取った。


だけど、何もしないでただだらけていた体に自然は容赦なかった。

一日掛けて耕せたのはたった4畳程度の広さ。たぶん、女子中学生でももっといけたであろうその成果に自分の無力を感じた俺は、次の日、市内のホームセンターまで軽トラ。これもじいちゃんの遺産だ―――を走らせ、初心者に最適と書かれた一番小さい耕うん機を買ってきた。


さすが文明の利器、お値段7万円。あれ程苦労した固い畑がみるみるうちに耕やかされていく。

だが、相棒の激しい振動と揺れが、次第にひ弱な俺の体力を奪っていく。そんな相棒と格闘しながらちょくちょく休憩も取りつつも、100坪全てを耕し終わったのは既に空が茜色に染まる頃だった。



「くぅ~、疲れた。」


相棒との格闘で疲れた体を大きく伸ばして、俺たちの成果を眺める。

荒れ果てていた100坪ほどの畑が見事に耕かされているのを見ると久しぶりに感じた小さな達成感が湧いてきた。


「やったな相棒、俺達の成果だ......」


朝までは朝日に輝いていた相棒の黒いローターも、長い戦いの後で泥まみれだ。

俺は敷地の入り口近くの納屋の横にある水道まで相棒を引っ張って行き、戦いに疲れた相棒の身体を労う様にホースで水を掛け始めた。


(あっ、ブラシを忘れた。)


昨日、ホームセンターで色々買い物をした際に、洗車用ブラシを買った事を思い出した俺は、母屋に戻ってブラシを手に取ると、相棒の身体を洗ってやろうと再び水道に向かう。


(相棒に名前を付けてやらなきゃな......)


どんな名前がいいか考えながら、相棒に目を向けた時だった。


(ん?誰だ......)


水道の横、大きな桜の老木が七分咲きの枝を広げたその下に、人が立っているのが見えた。

我が家から上には人家はなく、たまに通るのは下山道を間違えた登山者くらいだ。

(道に迷った登山者かな?)

そう思い、その桜の下に立つ人物に近づいて行く。

だけど、少し近づいてその人物が普通じゃない事が分かり足が止まる。


端正な顔に不安そうな表情を浮かべ、回りを見渡している女の子。

年は15か16才位、中学生か高校生だろうか?

やけに身長が高い事を除けば、そんなにおかしい事ではない。

いや、すでに薄暗くなった夕暮れに、こんな山奥で一人でいる事自体十分おかしい事だけど、今の問題はそこじゃない。


その白く端正な顔の上、彼女の頭には時代劇で見るような日本髪が結わえ付けてあった。

キョロキョロと彼女が顔を振る度に、髪に刺さったかんざし?が揺れるのが見える。

そして、視線を彼女の顔の下に向けると淡い水色の綺麗な服が目に入る。

ただ、服と言ってもそれは洋服ではなく、和服。

彼女は見事な着物を纏っていた。


(え?何?こんな所で......人んちの庭でコスプレ?)


成人式はとっくに終わったし、七五三はだいぶ先だ。

俺はその女の子の怪しすぎる風体に動けずにいた。


すると、その女の子に俺の姿が目に入ったのだろう。

キョロキョロと辺りを見廻していた顔が俺の方を見て止まった。


「申し、申し、少しお尋ねしたいのですが......」

見た目や雰囲気そのままの凛として透き通る、鈴を小さく鳴らしたような声。


「えーっと、君は―――」

そこまで言いかけて、俺はその子の背が高い理由が分かった。


「あっ!お前っ!俺の相棒を......」

「えっ?」


(......なぜお前は相棒の上に立っている。)


女の子は俺の視線の先を追って自分の足元を見た瞬間、大きくバランスを崩した。


「うゎーー!わっ!わっ!」

相棒の上で中腰になり、両腕を広げて必死にバランスを取ろうとする女の子。

プルプル震えながらも何とか持ちこたえた。


「おー!」

パチパチパチ―――


小さかった頃、祖父母に連れられて見に行った木○大サーカスを思い出すな。

俺の拍手にその女の子はゆっくりと顔を上げ、得意満面のドヤ顔でニヤリと笑みを浮かべた。

いやいや、拍手なんかしている場合じゃねえ。

そのドヤ顔もむかつくが―――


「......つーか、お前さ......」


最大の危機を乗り越えて気が緩んだのだろう。俺が声を掛けた瞬間―――


「ひゃぁーー!!」


―――ガシャン!!


足を滑らせ勢いよく地面に転げ落ちる女の子。

それと同時に俺の相棒も大きな音をたてて横倒しになった。


「あぁっ、俺の相棒が......」


それが俺の平穏な日常を乱すことになる彼女との出会いだった。


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